沖永良部島守備隊戦記(6) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 四月四日午後四時五分、特設見張所は「敵駆逐艦一隻二二〇度一〇粁二於テ本島に向ケ艦砲射撃ヲ開始ス」(註1)と打電した。その後「一六五〇艦砲射撃ヲ中止シ二二〇度遊弋中當所附近弾着人員兵器異常ナシ」(註2)と報告した。米艦は島の西北海上に現れ、特設見張所周辺頂上を約一時間にわたり、八〇発砲撃を加えた。砲弾は陣地には届かず、途中の山肌に落下した。(註3)

 この砲撃で特設見張所の藤本(藤木?)上等水兵が直撃弾を受けて即死したが、十分な葬儀は行なわれなかったという。(註4)だが山口少尉の手記には一切触れなれていないので、誤りの可能性が高い。

 知名村立青年学校では、御真影を大津勘の洞窟(水連洞)に奉遷した。その洞窟には住民多数も避難につめかけた。砲撃が止むと、御真影を特設見張所へ奉持したが、海軍も陸軍も右往左往していたという。(註5)

 この艦砲射撃の際、野砲小隊長の岩崎少尉は「何を小癪な」といきり立ち、敵艦を野砲で射撃しようと部隊長にはかったが、「馬鹿なことをするな」と止められた。(註6)これは射撃することで陣地のありかを暴露し、百倍の反撃で徹底的にやられ、住民にも危害が及ぶからだった。(註7)

 対空砲部隊が米軍機に反撃することは、奄美諸島の他の島々でもあったが、敵機に対する反撃を本務としない特設見張所が反撃することは、当時としても異例なことだった。反撃することは、命令違反と取られる可能性もある行為だと言える。

 当時第三大隊の松延小隊は、特設見張所の北東二百メートルくらいに陣地を構えていたが、この艦砲射撃に度肝を抜かれ、陸海の隊長間では抜刀しかねない争いになったとの噂があった。(註8)艦砲射撃に反撃するかどうか、意見が対立したのだろうか。

 米軍は艦砲射撃の後に上陸作戦を行なうのが通例なため、山口少尉は玉砕の覚悟を固め、下士官を召集し対策を練った。そして後方支援の協力を、青年学校と上城国民学校の先生に、内密に計画を申し入れた。(註9)

 おそらく四日の夜のことだろう、警防団長が島尻国民学校の赤地信校長に、松延小隊長からの伝令として「明日未明に敵の機動部隊が上陸の公算大である」と告げた。明朝職員一同は食糧を準備して、奉安殿の前に集合した。いざという時は御真影を奉護して大山に行き、御真影と運命を共にする覚悟を決めたという。(註10)大山の陸海軍共に米軍の上陸を覚悟したのである。

 だが上陸作戦は行なわれなかった。上陸作戦のための艦砲射撃ならば、上陸場所の海岸線を重点的に砲撃するはずである。砲撃数も数百発以上に達するだろう。米軍の正確な意図は不明だが、上陸する意図がなかったことは確かだろう。

 艦砲射撃の前日に、知名港と集落を攻撃したグラマン二機が大山頂上付近で反転した際、機帆船から外した機銃で攻撃し、尾翼付近から煙を吐かせて撃退していた。山口少尉は、艦砲射撃はこの攻撃に対する報復攻撃だと考えた。(註11)

 四月三日の米軍機の空襲の報告書は未見のため、前日の空襲と艦砲射撃との関係は明らかでない。だが五日に米軍機は、和泊町と知名町に大規模な空襲を行なっている。明確な軍事目標のない沖永良部島への空襲であり、異例の攻撃である。三日の米軍機の損傷を受け、四日・五日と報復攻撃を行なった可能性は高いだろう。

 翌五日も駆潜艇が島を巡り砲撃を加えたという。(註12)特設見張所は「敵船一隻がこの島から二〇〇度方向距離(数字不明)を通過」(註13)と、島近海に米艦がいたことを報告している。先述の山口少尉の手記には、この日の艦砲射撃は記されていないので、大山は目標になっていないようだ。

 

(註1)防衛研究所戦史研究センター所蔵『大島防備隊戦時日誌 昭和二〇年四月』 一七二八頁

(註2)前掲註1 一七二八頁

(註3)山口政秀『沖永良部島 海軍特設見張所』(南京都学園 一九九九) 一三六頁

(註4)神崎西國『自分史 世界日本の動きと私』(私家版 一九九九) 一五三頁

(註5)町誌編纂委員会『知名町誌』(知名町役場 一九八二) 四一四頁

(註6)武田恵喜光『私の人づくり町づくり』(私家版 一九八八) 五〇頁

(註7)和泊町誌編集委員会編『和泊町誌(歴史編)』(和泊町教育委員会 一九八五) 七四九頁

(註8)町誌編纂委員会『知名町誌』(知名町役場 一九八二) 四一一頁

(註9)前掲註3 一三六~一三七頁

(註10)奄美郷土研究会編『軍政下の奄美』(一九八三) 二〇三頁

(註11)前掲註3 一三五~一三六頁

(註12)前掲註7 七五六頁

(註13)沖縄県公文書館所蔵「傍受敵国無線翻訳文及び第二次世界大戦関係雑書」内「0000036990 沖永良部島無線基地」