六日に来襲が確認出来るのは、午後二時一〇分から三〇分で、F4U八機・P51二機・B25三機が、泊地付近の陸上諸施設を銃撃した。(『大防戦詳 S二〇・八』 一七九頁)
これに該当する一部が、午後一時三〇分に発進した、第三四一戦闘機中隊のP51二機(ロケット弾六発を装備)だった。午後二時一五分から四五分に目標上空に到達した。ロケット弾二発と銃撃で、北緯二八度九分・東経一二九度一五分の丘の無線局に火災を起こし、北緯二八度一二分・東経一二九度一五分の丘の無線局は銃撃で破壊された。四つの銃陣地は北緯二八度九分・東経一二九度一四分で銃撃され、二つの銃陣地は北緯二八度一一分・東経一二九度一二分で銃撃された。直撃は全ての銃陣地に得られた。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/5454」)
最初の無線局は瀬戸内町阿多地集落・須古茂集落の中間付近、二番目の無線局はデリキョンマ崎の北東海上となる。二つの無線局は同一のものをさしている可能性もある。銃陣地はそれぞれ武名集落の南方と薩川集落付近になる。詳細な場所は不明だが、いずれも大島海峡周辺である。
この編隊の任務は、奄美大島のロケット弾テストと臨機目標の銃撃だった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/5454」)日本軍の陣地・施設を攻撃すること以外に、詳細は不明だがロケット弾のテストとあるのは注目に値する。米軍にとって奄美攻撃は、兵器の実験場としての意味もあったのである。
七日に最初に来襲が確認出来るのは、午前一一時から三〇分で、小型機約五〇機が来襲し、うち四機が西古見に、二機が俵付近を銃撃した。(『大防戦詳 S二〇・八』 一七九頁)
これに該当する一部が、午前九時一五分に発進した、第三四一戦闘機中隊のP51八機だった。爆撃機援護の帰りに臨機目標を、午前一一時から午後一時に、北緯二八度一一分・東経一二九度一四分で無線局と銃陣地を銃撃した。結果は確認出来なかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/5454」)攻撃した場所は阿木名集落の近くである。無線局が何を示すのかは不明である。
二番目に来襲が確認出来るのは、午後二時一六分から二四分で、四機が来襲した。(『大防日誌 S二〇・八』 一三五〇頁)
これに該当する可能性があるのが、午前九時五三分に発進した、第一九戦闘機中隊のP47一機だった。一八機は水俣の窒素固定工場攻撃に出撃したが、一機は久慈湾の船一〇隻の一隻に一〇〇〇ポンド爆弾二発を投下した。結果は確認出来なかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3677」)
また時間がはっきりしないが、第四九戦闘機中隊のP38一機(一六五ガロンナパーム弾一発を装備)が来襲した。一六五ガロンナパーム弾一発を、奄美大島の東端の漁船に投下した。結果は確認出来ず、小型銃火がコックピットの右窓に命中し、搭乗員は右足に僅かに負傷した。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/5463」)
この日は大和村今里集落では空襲で七名が死亡している。同集落では一二時頃三機の飛行機が飛来して爆弾四個を投下した。鰹節工場を目がけての爆撃だったという。(註59)攻撃目標から考えると最初の来襲の可能性があるが、攻撃場所はかなり離れている。
八日に来襲が確認出来るのは、午前九時三〇分に発進した、第六九戦闘機中隊のP47一六機だった。任務は佐世保の航空母艦爆撃で、主要目標が悪天候だったため、四機が一〇〇〇ポンド爆弾四発を奄美大島の南西端に投下した。損害はなかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/5469」)
これに該当する可能性があるのが、午後一二時一二分から二〇分で、P51二機が曽津高崎を銃撃した。(『大防戦詳日誌 S二〇・八』 一七九頁)機種及び銃撃と爆撃の違いはあるが、奄美大島の南西端とは曽津高崎のことだろう。
(註1)東健一郎「大和・宇検・住用の戦時について」(『奄美郷土研究会報』第二四号 一九八四) 三四頁