米軍資料に見る奄美大島空襲(56) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 八月八月一日に来襲が確認出来るのは、午前一一時四〇分から午後一二時で、一三機が来襲した。(『大防日誌 S二〇・八』 一三四九頁)

 これに該当するのが、沖縄泡瀬飛行場を午前八時二五分に発進した、第二一二海兵戦闘飛行隊のF4U一七機(ロケット弾八発を装備)だった。沖縄泡瀬飛行場を発進した第二二二海兵戦闘飛行隊のF4U一八機と第二二三海兵戦闘飛行隊のF4U八機、伊江島飛行場を発進したVD三のF6F二機(私註、撮影機か?)が同行した。

 奄美大島に午後一二時に到達した。江仁屋離れをロケット弾五二発で攻撃し、島の北側の七つの対空砲陣地に一二発が命中したが、結果は確認出来なかった。安木屋場ロケット弾三〇発で攻撃したが、損害は確認出来なかった。用安をロケット弾八発で攻撃したが、損害は確認出来なかった。

 安木屋場集落が攻撃されるのは、六月二三日以来である。先述のように同集落は、戦争中に一軒しか焼失していない。近くの龍郷集落では、この日二名が死亡している。(註1)二人は大木の下に避難した時に爆撃を受け、遺体は爆風で激しく傷つき、近親者には見せられない状況だった。この時龍郷集落では、男性一名が負傷した。(註2)

 この日は奄美市笠利町万屋集落出身者も、一名が死亡している。(註3)米軍機は島の北東海岸の宇宿・土盛・須野・辺留・笠利・用の集落上空を継続的な銃撃を行っているので(「林博史提供史料 127/237H/10」)、一帯の集落を広範囲に攻撃したようだ。また加計呂間島の北西端の対空砲守備も攻撃された。(「林博史提供史料 127/1057/07」)

 五日に最初に来襲が確認出来るのは、午前一一時三五分で、B24一機が侵入した。(『大防戦詳 S二〇・八』 一七七頁)

 これに該当するのが、読谷飛行場を午前九時三七分から五七分に発進した、第一一爆撃群団のB24一機だった。同機は他の僚機と共に九州の垂水町攻撃に発進したが、同機のみ奄美大島の海軍基地を爆弾一二発で午前一一時二五分に攻撃し、海軍基地の西岸に六つの火災が起きた。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/0093」)

 二番目に来襲が確認出来るのは、午前一一時五六分から午後一二時二分で、P47二機が曽津高崎衛所を銃爆撃した。(『大防戦詳 S二〇・八』 一七七頁)

 これに該当するのが、午前一〇時三〇分に発進した、第四六四戦闘機中隊のP47である。一八機が九州攻撃に発進し、二機は計画の通り戻り、海面よりよりよい投棄目標地域と見なされた、曽津高崎の灯台に爆弾を投下した。一発は海中に落ち、他は灯台の壁に落ちた。他の二発は確認出来なかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3471」)

 「海面よりよりよい投棄目標」とあるので、九州を攻撃できず、臨機目標として攻撃したのだろう。爆弾を捨てるよりはましということだが、攻撃される側は完全なとばっちりである。

 この日はもう二つ来襲があった。一つ目はB24一九機が奄美大島の赤尾木飛行場をレーダー爆撃したが、結果は確認出来なかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3612」)赤尾木には飛行場はなかったが、笠利周辺には平地がある。そこを飛行場と誤認したのだろうか。

 二つ目は第三一一戦闘機中隊のP47一四機(一六五ガロンナパーム弾二発を装備)だった。編隊は九州攻撃に発進し、臨機目標として奄美大島を攻撃した。七機がナパーム弾一四発を大勝町の倉庫六棟に投下した。黒煙が四つの建物に二〇〇〇フィートまであがった。六機はナパーム弾一二発を、和野の擬装された三つの長い小さな屋根建物に投下し、一五〇〇フィートの煙の火災が起きた。赤尾木飛行場に駐車したトラックが銃撃され炎上した。同じ滑走路の不明単発機一機が銃撃された。一人の人間がトラックから飛び出して、銃撃で射殺された。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/5645」)

 B24は護衛戦闘機を伴うのが普通である。この二つの編隊は九州攻撃に出動した、爆撃機と護衛戦闘機が九州の代わりに臨機目標として攻撃したのだろう。

 

(註1)東健一郎「龍郷町の戦時(太平洋戦争)について」(『奄美郷土研究会報』第二三号 一九八三) 八一頁

(註2)『平和の碑 終戦五〇周年記念事業』(龍郷町遺族会 一九九七) 三五頁

(註3)東健一郎「笠利村の戦時について」(『奄美郷土研究会報』第二二号 一九八二) 三九頁