米軍資料に見る奄美大島空襲(54) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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  一九日に来襲が確認出来るのは、嘉手納基地を発進した、第四八爆撃機中隊のB25七機(一〇〇〇ポンド爆弾二発を装備)だった。名瀬港の入り口の座礁した船舶に爆弾を投下し、全機が爆撃中に銃撃した。二発が命中し二発が至近弾となった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3529」)

 名瀬では「午前ロッキード二機」(註1)が来襲したという。機種は違うが、この来襲のことを指しているかもしれない。

 二一日に最初に来襲したのは、嘉手納飛行場を午前一〇時四〇分から一一時一一分に発進した、第四一爆撃機群団のB25二五機とA26一機(一〇〇〇ポンド爆弾二発を装備)だった。名瀬港の二隻の座礁した船舶を攻撃した。爆弾四六発を投下し、五発が船に命中して二隻とも火災が起きた。(「林博史提供史料 018/6 7A/5303」「018/NM6 7A/0218-2」」)

 二番目に来襲したのは、午後二時三〇分から午後三時頃に発進した、第四六三・四六四・四六五戦闘機中隊のP47五四機(一〇〇〇ポンド爆弾を装備)だった。名瀬港の座礁した船二隻を銃爆撃し、爆弾五発の命中と爆弾二五発の至近弾が、二隻の船に確認された。合わせて銃撃で五〇口径弾一一四三三発が消費された。

 第四六四戦闘機中隊の機は、名瀬の郊外の大きな倉庫に見えたものに爆弾を投下した。建物は破壊され、中央に煙と火災が起きた。第四六五戦闘機中隊は曽津高崎の灯台とレーダー施設も攻撃した。灯台とレーダー施設は両方とも煙が見えた。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3471」)

 三番目に来襲したのは、午後二時一〇分に発進した、第三四戦闘機中隊のP47一七機(合計で一〇〇〇ポンド爆弾二発とロケット弾を装備)だった。編隊は午後三時から午後三時三〇分に目標に到達した。来襲・発進時間から考えると、二番目の編隊と同時に来襲した可能性もあるだろう。

 名瀬港の七〇〇〇から八〇〇〇トンの船舶を攻撃し、五発の命中と一四発の至近弾を得た。火災煙と破片が目撃された。基地に戻る途中、一編隊は曽津高崎灯台をロケット弾と銃撃で攻撃した。ロケット弾三発が灯台に近接した地域の建物に命中し、編隊は地域と灯台の建物を銃撃した。火災煙と破片が目撃された。

 一編隊は伊津武勝で兵舎を爆撃し破壊した。戸口の倉庫に爆弾を投下し、火災煙と破片が目撃された。一編隊は曽津高崎のレーダー施設をロケット弾と機銃で攻撃し、レーダー施設に二発の命中、レーダー施設の東の建物に二発の命中を得た。

 一編隊は東経一二九度三二分・北緯二八度二六分三〇秒の梵論瀬崎の東二分の一マイルの有良の建物をロケット弾で攻撃した。攻撃の結果は確認出来なかった。一編隊は東経一二九度二七分三〇秒・北緯二八度一八分のススク(私註、奄美市住用町城か?)の大きな建物を機銃とロケット弾で攻撃し、徹底的に破壊した。この他に小湊で小型ランチ二隻を破壊し、機種不明の胴体着陸した飛行機二機を破壊した。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3682」)

 午後三時四五分に、P47四機が曽津高崎見張所を銃撃した。午後四時から一〇分にも、P47八機が同見張所を銃爆撃した。(『大防戦詳 S二〇・七』 一六〇頁)時間は少し異なるが、二番目と三番目の来襲だろう。

 名瀬では「午前極洋、丹後投弾」(註2)したという。午前中の来襲が爆撃機、午後の来襲が戦闘機だったのである。名瀬の浦上集落では、「大型爆撃機来襲、午前、午後、一時間以上滞空。戸口、浦、浦上等に今までにない大型爆弾を投下」した。(註3)

 この日住民は、B24がはるか上空をゆっくり移動するのを目撃した。(註4)一〇〇〇ポンド爆弾は日本軍の五〇〇キロ爆弾に相当するが、米軍機の空襲は二五〇キロ爆弾の使用が多いので、この感想は正しい。

 浦上では「午前中の空襲で焼夷弾が投下され、村の二ヶ所から火の手があがった」(註5)という。名瀬港から集落は少し離れている。午前中の来襲は名瀬港の船舶を狙っているので、爆弾が外れて集落に落ちた可能性が高い。

 集落の火が収まった午後二時頃、浦上の防空壕の前に二発の爆弾が投下された。防空壕の場所には大きな穴が開いた。防衛隊が主体となって救出作業が行われ、女性一人が救出されたが、一三人が遺体で発見された。別の一人は爆弾で四散したのか、遺体も遺留品も見つからなかった。(註6)これは午後の空襲によるものだろう。

 またこの日は奄美市笠利町赤木名集落の出身者一名が死亡している。(註7)詳しい状況は不明なため、関連はよく分からない。

 

(註1)岩切敦良「名瀬空襲メモ 太平洋戦争」(『奄美郷土研究会報』第七号 一九六七)所収) 一〇六頁

(註2)前掲註1 一〇六頁

(註3)東健一郎『あれから三五年』(昭和プリント株式会社 一九八〇) 七〇頁

(註4)赤塚嘉寛『綴かたこくみんがっこう時代』(私家版 一九九八) 八六頁

(註5)前掲註3 七〇頁

(註6)前掲註3 七〇~七一頁

(註7)東健一郎「笠利村の戦時について」(『奄美郷土研究会報』第二二号 一九八二) 三九頁