米軍資料に見る奄美大島空襲(53) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 一一日に来襲が確認出来るのは、沖縄チム飛行場を午前五時三〇分に発進した、第二二四海兵戦闘飛行隊のF4U二〇機(五〇〇ポンド爆弾二発を装備)だった。第三一一海兵戦闘飛行隊のF4U一七機、第四四一海兵戦闘飛行隊のF4U二一機、PBM(部隊不明。慶良間列島を発進)が同行した。

 編隊は宮崎飛行場を攻撃した。第二二四海兵戦闘飛行隊のうち二機が、加計呂間島の対空砲陣地を爆弾四発で攻撃し、全て命中した。同飛行隊の別の二機が、古仁屋水上機基地を爆弾四発で攻撃し全て命中した。第三一一海兵戦闘飛行隊の八機が加計呂間島を銃撃し、対空砲陣地がよく銃撃された。

 この日、第二二二海兵戦闘飛行隊の一機が、加計呂間島の東で不時着水し、救難機に救助された。(「林博史提供史料 127/237H/09」)奄美攻撃の際に撃墜されたのか、他の任務の途中で不時着したかは不明である。

この日午前九時三八分から一〇時一三分まで、一一機が大島海峡に来襲している。(『大防日誌 S二〇・七』 一〇二頁)機数から考えると、この来襲に該当する可能性が高いだろう。

 この日は奄美市笠利町須野集落の出身者一名が死亡している。(註37)この日、第二三二海兵雷撃爆撃飛行隊の一機が、九州攻撃に離陸した。同機は基地へ戻るように命じられ、搭乗員は奄美大島の北海岸に到着し、基地へ戻る前に爆弾を投下した。(「林博史提供史料 127/237H/10」)この機が投下した爆弾が、須野集落に被害を与えたのだろう。

 一三日に来襲が確認出来るのは、沖縄嘉手納飛行場を午後二時五六分に発進した、第二三二海兵雷撃爆撃飛行隊のTBM一機(一〇〇ポンド爆弾一二発を装備)だった。伊江島を発進した第三二二海兵戦闘飛行隊のF4U四機が同行した。

目標に午後五時に到達し、北奄美大島の無線塔と周囲の建物を爆弾一二発で攻撃したが、損害は確認出来なかった。コンクリートの建物二棟に爆弾が命中した。これは赤尾木送受信所のことだろう。

 一七日に来襲が確認出来るのは、P51一五機で、奄美大島のHA崎の一〇〇〇〇トンの船に五発の直撃弾と五発の至近弾を得た。その船は火災を起こして右舷に傾いた。またP47七機は後でその船が燃えているのを目撃し、七発以上の命中弾を得た。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3612」)

 名瀬には「午前、午後二回計二十二機が極洋、丹後投弾」(註38)があった。トン数から考えてこの船は「極洋丸」である。

 一八日に来襲が確認出来るのは、P47五〇機で、奄美大島と近くの島を攻撃した。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3612」)

 この日はP47がそれぞれ来襲し、午前八時一〇分に一機が曽津高崎を、午前八時五〇分から五七分に一機が古仁屋町を、午前九時五〇分から午前一〇時二〇分に一六機が焼内湾付近・防備隊本隊・於斉・古仁屋・曽津高崎を攻撃した。(『大防戦詳 S二〇・七』 一五九から一六〇頁)これらが五〇機の一部だろう。

 このうち午前九時五〇分からの来襲に該当するのが、午前七時四分に発進した、第三四戦闘機中隊のP47一七機(一〇〇〇ポンド爆弾二発を装備)だった。編隊は九州の都城攻撃のため発進したが、悪天候のため臨機目標として奄美大島を攻撃した。

 編隊は午前一〇時一五分に奄美大島上空に到達し、一編隊は北緯二八度一五分・東経一二七度五九分の灯台を降下爆撃した。命中は得られなかった。二編隊は名瀬港の使用不能な一〇〇〇〇トンの船舶を爆撃した。爆弾全ては目標を通り越し、至近弾二発を除いて山羊島の集落に落ちた。煙と破片が目撃されたが、火災はなかった。一編隊は小湊のドックを爆撃した。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/3682」)灯台は位置から考えて、曽津高崎灯台のことである。

 午後には、午後四時四〇分から五七分に、P51一二機が篠川湾の船艇及び集落を銃爆撃した。(『大防戦詳 S二〇・七』 一六〇頁)

 これに該当するのが、午後三時五〇分に発進した、第三四一戦闘機中隊のP51一二機(五〇〇ポンド爆弾二発を装備)だった。午後四時三〇分から四五分に目標上空に到達した。SD二隻が銃爆撃で、二発の直撃と一二発の至近弾により、篠川、オシモ港で破壊された。同じ港に散らばった六から八隻の使用可能なSDが銃撃され、多数の命中が目撃されたが火災は起きなかった。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/5454」)

 もう一つ午後に来襲したのは、午後三時五分に発進した、第三四〇戦闘機中隊のP51一二機(五〇〇ポンド爆弾二発を装備)だった。午後三時三五分から午後四時に目標に到達した。名瀬港で爆弾一発がFA型護衛艦の船体中央に命中した。四発が二五フィート以内に命中した。爆弾一九発が船の一五〇から二五〇フィートに命中した。船は以前の攻撃で船尾が底に着き使用不能だった。名瀬港で多数の漁船が銃撃され、全てが使用不能に見えた。(「林博史提供史料 018/NM6 7A/5474」)

 この日名瀬には「午前四機、午後八機極洋、丹後投弾、午後は町内にも機銃」(註39)があった。午前中のP47の攻撃はトン数から考えて「極洋丸」である。午後の攻撃は二隻の区別は明確ではないが、護衛艦は「丹後丸」の可能性が高い。

 また宇検村宇検集落には、爆弾二発が投下され三八戸が全焼した。(註40)空襲の詳細な状況は不明だが、午後のP51の来襲によるものだろう。

 また奄美市住用町では、正午近くに米軍機一機が来襲し、西仲間の村役場前に爆弾二発を投下した。爆弾の爆風により、住民二名が死亡した。(註41)この時間帯の来襲は確認されていないので、どの来襲が該当するかは不明である。

 

(註1)東健一郎「笠利村の戦時について」(『奄美郷土研究会報』第二二号 一九八二) 三九頁

(註2)岩切敦良「名瀬空襲メモ 太平洋戦争」(『奄美郷土研究会報』第七号 一九六七)所収) 一〇五頁

(註3)前掲註2 一〇六頁

(註4)宇検部落郷土誌編集委員会『宇検部落郷土誌 歴史景観の里』(一九九六) 五四四頁

(註5)『わきゃシマぬあゆみ 住用村の歴史と暮らし』(住用村誌編集委員会 二〇〇五) 一五四頁