米軍資料に見る沖永良部島空襲(4) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 4月5日、午後3時15分に空母「サンジャシント」を発進した、第45戦闘飛行隊のF6F8機(ロケット弾6発と500ポンド爆弾1発を装備)、第45雷撃飛行隊のTBM6機(500ポンド爆弾4発を装備)が来襲した。
攻撃隊は午後4時20から30分に沖永良部島に到達した。戦闘機隊は、島の北海岸の約20隻の浜に引き揚げられた小型ボート、島の相当な大きさと構造のあらゆる建物、南東海岸の近くの倉庫を攻撃し、地上に火災が起きた。少なくとも海岸近くの10の異なる破片が飛行機により発見され、たとえあっても、丈夫な構造の建物はほとんど(一字不明)かった。
雷撃隊は、和泊町の水辺地帯沿いの倉庫と他の建物を爆弾し、爆弾14発が命中して甚大な損害を与え、10箇所の異なる火災がおきた。知名町の桟橋と水辺地帯の建物を爆撃し、爆弾7発が命中して甚大な損害を与え、火災が目撃された。
米軍はこれまでの沖永良部上空の最初の掃討の飛行に加えて、島を撮影した最初の写真から、沖永良部島には飛行場はなく、ほとんど重要な目標を持たないと知っていた。そのため攻撃隊の最初の仕事は、軍事性を持つかもしれないいくつかの施設を探すことだった。つまりこの攻撃は、軍事目標ではない、臨機目標を対象としたものだったのである。
 ではなぜ沖永良部島を攻撃したのだろうか。2日前なので、3日のことだろう。米軍機が海上から知名小学校と知名国民学校(註33)(別の資料では住吉集落とも(註34))を攻撃した。大山の海軍特設見張所上空で反転した時、見張所の小田兵曹が対空機銃を発砲し、米軍機は撃墜された。(註33では被弾して逃走したとある。)
 当時上城国民学校で教師をしていた神崎西國さんは、日曜日は見張所の見張りの応援に来ていた。(註35)神崎さんはこの反撃によって、陣地が暴露されたため、空襲を受けたと考えた。(註36)見張所長の山口政秀少尉も、「昨日の敵機の帰還後報告によって報復攻撃をしてきた」(註37)と考えた。
 米軍の報告書には、5日の空襲と3日の米軍機への反撃との関係は特に記されていない。ただ4日・5日と見張所を目標に艦砲射撃を行っている(註38)ことを考え合わせると、島への報復攻撃だった可能性は高いと考えられる。ただし先述のように、米軍は見張所の正確な位置を特定出来ていなかった。5日に見張所は4機による連続攻撃を受けたというが(註39)、これはたまたまだったようだ。
 11日、空母「エセックス」を午後12時26分に発進した、第83戦闘飛行隊のF6F5機(ロケット弾6発を装備)、第83爆撃飛行隊のSB2C6機(250ポンド爆弾2発と500ポンド爆弾2発を装備)、第83雷撃飛行隊のTBM6機(4機は500ポンド爆弾4発を、2機は100ポンド爆弾12発を装備)が来襲した。
 攻撃隊の任務は徳之飛行場に対する攻撃で、午前11時30分から午後1時45分に目標に到達した。沖永良部の北西岸を第83爆撃飛行隊の6機が250ポンド爆弾10発と500ポンド爆弾7発で攻撃し全て命中したが、損害は不明だった。攻撃目標は不適当な目標だったとされた。活動を示すものは全て撃たれ、水陸両用飛行機のための掩体壕かもしれない、格子縞模様のコンクリート建物が攻撃された。
 この日は「敵グラマン機旋回すれども銃撃なし」(註40)だった。米軍機が攻撃したのが何かは分からない。昭和59年当時、和泊港に太平洋戦争中の弾痕の残る倉庫があった。(現在もあるかは未確認)(註41)写真で見るとコンクリート造のようである。和泊は島の東側なのでこの日の目標の可能性はないが、これに類するものを攻撃したのではないだろうか。
 24日、水上機母艦「セント・ジョージ」を午前6時15分に発進した、第18偵察爆撃飛行隊のPBM2機(500ポンド爆弾4発、100ポンド爆弾4発を装備)が来襲した。
任務は船舶・建物の捜索で南西諸島を哨戒飛行しながら、屋久島・硫黄島・口之島・沖永良部島を相次いで攻撃した。午後2時45分に沖永良部島に来襲し、正体不明建物と小型ボートを100ポンド爆弾2発と機銃掃射で攻撃し、爆弾1発と機銃弾250発が命中し、建物とボートに損害を与えた。
 この日も日本側の資料には、米軍機の来襲は記録されていない。建物を攻撃しているので、集落を攻撃している可能性は高いと思われるが。記録がないのは、集落に大きな損害がなかったからだろう。ただ攻撃したのは正体不明建物で、軍事目標でないことは明らかである。

(註1)山口政秀『沖永良部島 海軍特設見張所』(南京都学園 1999) 135頁
(註2)町誌編纂委員会『知名町誌』(知名町役場 1982) 410頁
(註3)神崎西國『自分史 世界日本の動きと私』(私家版 1999) 147頁
(註4)前掲註2 411頁
(註5)前掲註1 136頁
(註6)前掲註2 414頁
(註7)前掲註2 411頁
(註8)前掲註2 415頁
(註9)『手々知名(吾館)字誌』(手々知名(吾館)字 2009) 330頁