米軍資料に見る徳之島空襲(13) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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10日は「未明より空爆、午后二時より一層激しく空襲」(「徳之島空襲日記」63頁)という状況だった。
未明から来襲した部隊は不明だが、午後来襲したのは、午前11時50分頃に発進した、空母「ベニントン」の第32戦闘飛行隊のF6F12機(11機が250ポンド爆弾2発とロケット弾4発を装備)だった。
 飛行場に午後1時15分に到達した編隊は、主滑走路と補助滑走路に爆弾12発を命中させ、甚大な損害を与えた。他に駐機している単発機20機をロケット弾と機銃で攻撃し、12機が炎上し、4機にひどい損害を与えた。被害はF6F2機にライフルと7・7ミリ弾が命中して、小さな損害を受けた。
 飛行場に配備された第75飛行場中隊は、2個分隊編成の高射機関砲小隊があり(註1)、武器として口径20ミリの九八式高射機関砲2基を装備していた。(註2)また独混64旅団の独立混成第21連隊(連隊長 井上二一大佐)石原中隊の重機関銃隊、同じく独立混成第22連隊(連隊長 鬼塚義惇大佐)の永田中隊の重機関銃隊が対空射撃に任じていた。(註3)
 これらの兵器以外にも、3月1日の空襲では独立混成第21連隊が軽機関銃と小銃で応戦し(註4)、同じ日の空襲で第75飛行場中隊も軽機関銃で応戦している(註5)。実際の戦闘では、使用できる兵器は全て使うという感じだったのだろう。F6F2機に命中したのも、こうした本来は地上戦用の兵器だったのだろう。
 11日は「未明より終日爆音あり、夕方より世夜通し空爆続く。夜から米機は照明弾使用をはじめた」(「徳之島空襲日記」63頁)という。
 最初に来襲したのは、空母「エセックス」を午前5時66分に発進した、第83戦闘爆撃飛行隊のF4U8機だった。任務は徳之島の目標戦闘空中哨戒だった。飛行場の北の様々な建物を7機が銃撃し、火災が3つ発生した。最も大きな火災は50×50の貯蔵建物だった。
 この他には、飛行場の5マイル南の西海岸で、浜に乗り上げたボート15隻と倉庫2棟を6機が銃撃して火災を起こし、小口径対空砲陣地を1機が銃撃したが、損害は確認出来なかった。
 2番目に来襲したのは空母「バンカーヒル」を午前7時30分に発進した、第221海兵戦闘飛行隊のF4U8機(ロケット弾8発装備)・第84爆撃飛行隊のSB2C6機(500ポンド爆弾2発と250ポンド爆弾2発を装備)・第84雷撃飛行隊のTBM6機(100ポンド爆弾12発を装備)、第84戦闘飛行隊のF6F(撮影機)1機だった。
編隊は午前8時45分から9時に、飛行場に到達した。戦闘機隊は掩体壕内の飛行機をロケット弾と機銃で攻撃し、僅かな損害を与えた。掩体壕内には、囮機か使用不能の機体しか見られなかったという。これは連日の空襲で使用可能の機体が減少していたのと、使用可能な機体は飛行場から離れた場所に隠していたためだろう。
他に戦闘機隊は、飛行場の北の小さい建物をロケット弾で破壊し、徳之島の北端の浜に乗り上げていた小型漁船3隻に、銃撃で甚大な損害を与えた。第1波が攻撃したボートと同じく、飛行場とは関係がないものまでも攻撃目標にしていることが分かる。被害はF4U1機がライフル銃火で機体に穴を開けられ、僅かな損害を受けた。
 爆撃機隊は、飛行場の滑走路に500ポンド爆弾多数を命中させ、甚大な損害を与えた。地下倉庫や様々な建物を250ポンド爆弾で攻撃し、多数が命中し甚大な損害を与えた。この時に北端の建物1棟が破壊され、多数の火災が飛行場の周りで起きた。雷撃機隊も飛行場を爆撃し甚大な損害を与えた。
 3番目に来襲したのが、空母「エセックス」を午後12時26分に発進した、第83戦闘飛行隊のF6F5機(ロケット弾6発を装備)・第83爆撃飛行隊のSB2C6機(250ポンド爆弾2発と500ポンド爆弾2発を装備)・第83雷撃飛行隊のTBM6機(500ポンド爆弾4発又は100ポンド爆弾12発を装備)だった。
 編隊は飛行場上空に、午後1時30分から午後1時45分まで在空した。戦闘機隊は1機が飛行場の損傷した飛行機を銃撃し、損害は確認出来なかった。他にはバラック地域を4機がロケット弾で攻撃し、全弾が命中したが、損害は確認出来なかった。
 爆撃機隊は掩体壕地域を爆撃し、5発が命中したが損害は確認出来なかった。だが燃料によると思われる火災の発生を確認した。雷撃機隊は戦闘機隊と同じくバラック地域を爆撃し攻撃し、40発が命中して3から4箇所の火災を確認した。
4番目に来襲したのは、空母「イントレピット」を午後1時30分に発進した、第10戦闘爆撃飛行隊のF4U8機(500ポンド爆弾1発を装備)だった。編隊は午後2時45分に目標に到着して、飛行場の滑走路を銃爆撃し、爆弾で滑走路に穴を開けた。
 5番目に来襲したのは、空母「エセックス」を午後12時26分に発進した第83戦闘爆撃飛行隊のF4U8機だった。任務は徳之島の目標戦闘空中哨戒だった。徳之島には午後3時30分に到着し、滑走路の南東の弾薬集積所、滑走路の南の木の茂った地域を銃撃したが、損害は確認出来なかった。
 この日は夜から翌12日の早朝にかけて、夜間空襲が行われた。空母「エンタープライズ」の第90夜戦飛行隊のTBM10機(100ポンド爆弾12発とロケット弾8発を装備)が、午後7時、午後9時、午後11時、午前1時、午前3時と5回に分れて発進した。徳之島飛行場は爆弾60発とロケット弾45発で攻撃された。各機は1時間から2時間40分の間、飛行場上空に存空した。
 夜間空襲のため徳之島では、「一日中爆音が激しく二十一時三〇分までも爆音と機銃の音にて眠れず」「昨夕来(私註、11日のこと)上空には息つく隙もなく爆音が激しく寝ることも出来ず」(「激戦下の徳之島」22頁)という状況だった。米軍機が長時間に上空に留まっていたことが、これらの証言からも分かる。
 この夜間空襲で、米軍機は徳之島で初めて照明弾を使用した。肉眼で見るとしばらく目が見えない程の明かりで地上を照らし、そこに機関銃を撃ち込んだ。かん高い金物を叩くような音を立てながら、「ヒューヒュー」と四方八方に落ちた。地上から米軍機は見えないため、どこに落ちるか分からないので、精神的に恐怖を感じたという。(「徳之島空襲日記」63頁)
夜間空襲の効果は、相手に与える物理的な損害よりも、相手の睡眠を妨げたり、恐怖や不安感を与える心理的効果の方が大きいと言える。住民にとって照明弾で照らされ、どこからともなく撃ち込まれる銃撃は恐怖だっただろう。

(註1)第75飛行場中隊山県隊・戦友会『徳想記』(私家版) 129頁
(註2)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『3・1南西空襲戦闘詳報 第75飛行場中隊』 883頁
(註3)徳富重成「胸をえぐる戦争体験」(徳之島郷土研究会編『徳之島における戦争体験記』(徳之島郷土研究会 1993 所収) 124頁
(註4)防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵『奄美守備隊空襲詳報 S20・3・1』 1168頁
(註5)前掲註2 883頁