大島防備隊戦記(21) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 21、1943年の奄美諸島周辺の戦闘(6)

 6月になると防備隊の指揮下に、新たな艦艇が配備された。4月に指揮下に入っていた特設駆潜艇の「龍井丸」「第二号天山丸」「目斗丸」が正式に配属され、この他に特設掃海艇の「関丸」「宝永丸」が配備された。これらの艦艇は沖縄群島と先島群島付近の防備・警戒を担当することになった。同時に那覇海上交通保護部も防備隊の指揮下に入った。(『佐鎮日誌』18年6月 1214頁)
 これらは南西諸島方面での米潜水艦の活動激化に伴い、沖縄群島と先島群島方面の兵力増強を図った措置である。これまで防備隊は5隻の艦艇で、トカラ列島から先島群島までの海域をカバーしてきた。だがこの処置により、従来の兵力は奄美群島とトカラ列島方面の防衛に専念出来るようになった。
 6月1日、佐世保空沖縄派遣隊の飛行機が、那覇の310度190浬で敵潜水艦を発見した。翌2日に「曽文丸」と「第三号報国丸」が、この潜水艦攻撃のため出動した。(『佐鎮日誌』18年6月 1250頁)
 13日、バリックババン行きの「日鶴丸」(特殊油槽船曳航。)が「熊野丸」の護衛を受けて、佐世保から南西諸島沿いに航行することになった。横当島から伊江島の間は、防備隊に護衛が命じられた。(『佐鎮日誌』18年6月 1293頁)また3月13日に宝島で座礁した「興生丸」の船長は、17日に離礁して門司に向かう予定の同船の護衛を防備隊に依頼した。(『佐鎮日誌』18年6月 1293頁)
 15日、佐鎮司令長官は佐世保空司令に対し、古仁屋に水偵5機を常駐させるように命令した。任務は船団護衛、対潜対空哨戒のためで、分隊長又は隊付指揮官を指揮官とするように定められた。(『佐鎮日誌』18年6月 1299~1300頁)水偵は19日に古仁屋に到着し(『佐鎮日誌』18年6月 1325頁)、基地員や物件は「富津丸」で17日に古仁屋到着の予定だった。(『佐鎮日誌』18年6月 1310~1311頁)
 これまでにも古仁屋には、たびたび佐世保空の水偵が派遣されているが、あくまでも一時的なものだった。だが今回それを常駐としたのは、南西諸島近海の米潜水艦の活動が、それだけ激しくなってきたからである。
 これから2ヵ月後の8月頃の基地の様子が伝わっている。派遣されたのは複葉の94式水偵だった。機体を陸に引き上げる滑りや駐機場は、8月時点でも大部分が工事中だった。水偵は海岸の砂地にフロートを乗り上げ、機体を近くの木にロープで結ぶという簡易的な基地だった。搭乗員は指揮官の野城英保中尉以下20名ほどだった。(註1)
このように基地施設の整備はこれからだった。このことから今回の水偵の常駐が、米潜水艦に対抗するために急遽決定されたことが分かる。また配備された機体は零式水偵ではなく、一世代前の94式水偵だった。これは配備が間に合わなかっただけでなく、船団護衛を軽視して新鋭機を回さないという、海軍の考え方が反映している。
 19日、「柏丸」から連絡があり、「興生丸」はその後更に損傷が見つかり、浮揚作業は6月末頃となる見込みとなった。(『佐鎮日誌』18年6月 1327頁)「柏丸」は曳航作業に備えて、宝島に到着していたのだろう。
 20日零時過ぎ、「陵水丸」が沖永良部島西端で座礁した。防備隊は「曽文丸」を現場に向かわせ、「鴎」と「柏丸」も、準備出来次第向かわせることにした。(『佐鎮日誌』18年6月 1335、1336頁)同艇は船橋より前方が座礁したが、午前6時20分には自力で離礁に成功した。21日には「曽文丸」と共に瀬相に入港した。(『佐鎮日誌』18年6月 1336、1339頁)
その後「陵水丸」は8月12日まで入渠して修理を行い、15日には加計呂麻島の瀬相に戻ってきた。(註2)瀬相では応急修理をしただけなので(『佐鎮日誌』18年6月 1339頁)、おそらく佐世保まで回航して本格的な修理を行ったと思われる。
 21日、到着したばかりの佐世保空の大島派遣隊の水偵2機に、男女群島付近警戒のあと本隊へ帰投するように命令が出された。これは同日「香港丸」(大阪商船 2979トン)が、北緯33度13分・東経128度45分で雷撃を受けて沈没したためである。(『佐鎮日誌』18年6月 1347、1354~1355、1359頁)同船を撃沈したのは米潜水艦「ガンネル」だった。


(註1)『瀬戸内町立図書館・郷土館紀要 第4号』(瀬戸内町立図書館・郷土館 20
09) 11頁
(註2)防衛研究所図書館所蔵『大島防備隊付属艦艇行動簿』