赤尾木無線送受信所攻撃(1945・4・5) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 国会図書館の憲政資料室にある米国戦略爆撃調査団の資料の中に、空母ごとの作戦報告書があります。今日はその中の1つを紹介します


赤尾木無線送受信所攻撃(1945・4・5)

1 概略
 空母「ベローウッド」の第30戦闘飛行隊のF6F4機と第30雷撃飛行隊のTBM6機が午後12時15分に発進、午後3時45分に帰還。任務は奄美大島の軍事施設攻撃。TBMは5機が500ポンド爆弾4発、1機が120ポンド破砕爆弾12発を装備。F6Fは全機にロケット弾6発を装備。

2 攻撃の概要
 西無線局に第30雷撃飛行隊の3機が、500ポンド爆弾12発を投下し8発命中。2つか4つの建物を80パーセント以上破壊。南東の無線局に同じく第30雷撃飛行隊の3機が120ポンド破砕爆弾12発と500ポンド爆弾12発を投下し、それぞれ2発と3発が命中。2つの建物に重大な損害を与えた。
 第30戦闘飛行隊の4機も、上記目標をロケット弾24発で攻撃し8発命中。効果は不明。ロケット弾2発は東無線局と西無線局の主要建物と小さな建物のそれぞれに命中した。

3 攻撃の詳細
 当初編隊は奄美大島古仁屋の水上機基地を攻撃するように命じられたが、上空の厚い雲のため攻撃できず、赤尾木の無線局に向かった。無線局はそれぞれコンクリートで補強された構造の5つの重い柱、無線と原動機の家と思われる1階建の共同住宅の建物、25×40フィートの杭が突出した木造建物、それぞれ約30×40フィートの寄棟でタイルで覆われたタイルで覆われた6つの建物からなる。
 カールソン大尉はロケット弾2発を主要な建物に命中させ、南西無線局のバラック建物にロケット弾2発を命中させた。ボールドウィン大尉は主要な建物にロケット弾2発、北東無線局のバラック建物にロケット弾2発を命中させた。建物の集中部は戦闘機4機により徹底的に機銃掃射され、合計24発のロケット弾がその区域に発射された。
 第30雷撃飛行隊の爆撃の結果は、この攻撃で高い満足を得た。これらの無線局は以前の攻撃で我が戦闘機パイロットにより機銃掃射され、離陸時に優先する選択目標に選ばれていた。降下は赤尾木集落を越えて北から行われ、編隊長のリーガン大尉は西無線局のより大きなコンクリート構造の小さな建物の群れを、降下の最高の目標として選び、積んでいる爆弾と信管の型には、たぶん無傷であろう主要建物の外見上、コンクリート建築物を述べている。
 写真BとCはリーガン大尉の攻撃を、写真Dはモーセイ少尉の最初の爆弾が同じ地域でまともに爆発したのを示している。これらの爆弾の間隔は40フィートかそれ以下なので、その建物にモーセイ少尉は2発を命中させたと信じている。この編隊の3番目の搭乗員のラーハン大尉は写真を撮れなかったが、同じ地域に2発の命中を信じている。これらの建物は80パーセントかそれ以上で破壊されたと思われる。
 ハリー大尉に率いられた第2編隊は東無線局を攻撃した。編隊長機は破砕爆弾を積み、残り全機は500ポンド爆弾を積んでいた。破砕爆弾は100間隔で投下され、それらのうち2発はその建物群の隣接地域に命中した。これらの搭乗員は西無線局の大きなコンクリート建物と同様の建物を見なかった。しかし他の無線局にこれらの配置と位置がほとんど同じ群れにある8から10の建物を報告した。2番目の搭乗員のベイリー少尉は命中弾で建物1つを破壊し、重大な損害をもたらすのに十分近いと思われる塔の基部に、別の爆弾を投下した。この編隊の3番目の搭乗員のYIZEN少尉はその建物の地域に少なくとも爆弾1個を投下した。これらの建物の2つかそれ以上が、おそらく破壊された。

この報告書には攻撃時の3枚の写真が添付されています。1枚目には右下と中央左寄りに無線塔が、左下には局舎らしき建物が写っています。局舎の上には官舎群が確認できます。局舎の右側には爆弾の爆煙らしきものが見えます。2枚目ははっきりしませんが、左下に無線塔1基とその右に局舎らしき建物があります。その後ろに写っているのは官舎と思われます。3枚目は1枚目の上側を中心に写しています。1枚目の中央左寄りの無線塔の右側に爆弾が炸裂しているのが分かります。無線塔の被害は不明ですが、建物は相当の被害を受けたと思われます。送受信所は4月に通信施設が破壊され、所員は残った受信機と送信機を持って民家に疎開しています。(註1)4月5日の攻撃が疎開のきっかけになったかは分かりませんが、この日の被害がその一因になったことは間違いないでしょう。
 報告書の記述から、赤尾木無線送受信所が東西(北東と南西)の2つに分かれていたことが分かります。送受信所は南に送信所、1キロ離れた北に受信所が設置されていた(註2)ので、どちらかは不明ですがぞれぞれに該当すると考えられます。2つの無線局は「配置と位置がほとんど同じ群れにある(中略)建物」がありました。送受信所は「それぞれコンクリートで補強された構造の5つの重い柱、無線と原動機の家と思われる1階建の共同住宅の建物、25×40フィートの杭が突出した木造建物、それぞれ約30×40フィートの寄棟でタイルで覆われた6つの建物からなっていた」とされています。5つの重い柱とは無線塔のこと、1階建の共同住宅とは鉄筋コンクリート製の局舎に、寄棟でタイルで覆われた建物とは官舎に該当すると考えられます。送信所には局舎1棟・官舎8棟・無線塔5基が、受信所には局舎1棟・官舎7棟・無線塔5基がそれぞれありました。(註3)「25×40フィートの杭が突出した木造建物」はよく分かりませんが、官舎の一部のことかも知れません。
 この攻撃は最初から送受信所を目標にしたわけではありません。ただ軍事施設である古仁屋水上機基地の代替目標とされたことに、米軍が送受信所を重要視していたことが分かります。確かに軍の施設ではありませんが、当時郵便局が軍に協力していたように、容易に軍事転用される可能性があったため、米軍は攻撃目標に選んだのでしょう。この日攻撃されなくても、早晩攻撃される運命にあったと言えるでしょう。この日の攻撃で使用されたのは爆弾36発(うち破砕爆弾12発)とロケット弾24発です。相当徹底した攻撃と言えます。この攻撃の激しさが、赤尾木無線送受信所の重要性を示していると言えるでしょう。

(註1)『龍郷町誌 歴史編』(龍郷町教育委員会 1988)377頁 
(註2)『奄美郷土研究会報 第40号』(奄美郷土研究会 2008) 13頁
(註3)前掲註1 374~375頁