昭和20年6月3日、知覧を発進した陸軍第214振武隊長の当山幸一少尉(特操1期)は、発動機の故障のため沖永良部島に不時着した。その後少尉は大発で沖永良部島、徳之島と島伝いに移動し、6月下旬には奄美大島に到着した。そこで基地に帰還するための迎えの便を待ちながら、油井岳の山間の兵舎で毎日を過ごしていた。
そんな7月のある日、当山少尉は兵舎の裏の防空壕に、一人の米軍捕虜が監禁されているに気が付いた。その捕虜は片腕をロープで縛られて空き箱に座っていた。少尉が氏名と階級を尋ねると、その捕虜は自分はP47の戦闘機隊長のフランク少佐だと名乗り、撃墜されて連れられて来たことや、故郷のテキサス州には妻と生後間もない男の子がいると語った。(註1)
捕虜になったのはフランク・J・コリンズ陸軍少佐である。少佐は沖縄本島伊江島に基地がある、陸軍第507戦闘機群第464中隊所属(機体はP47戦闘機)のパイロットである。少佐は7月10日にB24重爆撃機48機を護衛して熊本地区爆撃に出撃したが、天候不良のため爆撃不能。(一説にはB24は離陸しなかったとも言う。)そのため護衛のP47戦闘機48機は帰途奄美大島を攻撃した。出発にあたり九州攻撃不能の時は奄美大島地区攻撃を命令されており、目標は奄美大島要塞の対空火器と野戦陣地の低空偵察だった。(註2)
この攻撃で少佐の乗る機は午後12時20分頃に、高角砲のため大島海峡東口海峡内に撃墜された。少佐は墜落後泳いで逃げた所を皆津崎守備隊(陸軍重砲兵第6連隊第4中隊)に発見され、直ちに板付舟によって大島海峡外で捕虜となった。(註3)ただ米軍の資料によると、少佐は奄美大島で船舶の爆発に巻き込まれ機体から落下傘で脱出し、救命ボートで2日間海上を漂流後、徳之島で捕虜になったとされているようだ。
この時の攻撃では他の米軍機も撃墜されている。同じ隊のニール・T・マックギンス(McGINNIS)准尉はコリンズ少佐の救助活動を掩護中に、日本軍機の攻撃を受けて戦死したという。米軍は撃墜されたパイロットが海上に落ちた場合、飛行艇などを使って救助するのを常としており、その最中の出来事だったのだろうか。日本軍機の攻撃とあるが、この日奄美方面に日本軍機の飛来はない。こちらも対空砲火によるものと見てよいだろう。ちなみに日本軍はこの日、P47を8機撃墜したと判断しているようだ。(註4)
捕虜となったコリンズ少佐だが、昼間は壕から出されて近くの空地のベンチに監視兵付きで、片腕はロープで縛ったまま過ごすようになった。食事は毎日乾パンと牛缶のためさすがに飽きたようで、当山少尉が住民からもらった黒糖をあげると、気に入ったらしく再度求めたという。(註5)
日本軍というと一般的に捕虜に対して厳しい処遇をしたというイメージが強いが、コリンズ少佐に対してはそうではないようだ。本土からの補給が途絶えて食糧は乏しかったはずで、牛缶はかなりの貴重品だったはずである。その後徳之島に送られたことも考えると、おそらく徳之島の独立混成第64旅団司令部から、捕虜の待遇について指示が出ていたと思われる。
当山少尉とコリンズ少佐はその後も話をした。少佐は学生時代にボクシングで鍛えたそうで、ボクシングを教えるからロープを解いてくれ、一緒に散歩したい、コーヒーが欲しいなどと要求して少尉を困らせたりもした。また少佐からオセロを習ったり、歌を聴いたり、逆に日本語を教えたりした。帰還便を待つ他の特攻隊員もそれに加わったようで、少佐は一躍部隊の人気者となった。(註6)
7月中旬のある日、コリンズ少佐は徳之島に移されるため、奄美大島を後にした。当山少尉はロープに繋がれ山をおりていく少佐の姿を哀切の思いで見送った。少尉の手元には少佐が妻への思いと、短いながらも友情を育んだ友“トーリー”(当山少尉につけた愛称)に宛てた紙片が残された。(註7)
コリンズ少佐が徳之島に渡ったのは、徳之島の独立混成第64旅団司令部の指示と思われる。奄美大島で少佐を捕虜にしたのが、64旅団の指揮下の重砲兵第6連隊だったため、徳之島に移送されたのである。捕虜にしたのが海軍部隊だったなら、ずっと奄美大島に留められるか、帰還便で本土に移送されただろう。
徳之島に渡ったコリンズ少佐は徳之島憲兵隊の訊問を受ける。(憲兵隊も64旅団の指揮下である。)今回の徳之島への移送の大きな目的は、沖縄基地の情報を得ることであった。
その時、少佐が答えた内容が、防衛研究所図書館所蔵の『俘虜ニ関スル書類綴 独混64旅団司令部(返還資料)』が残されている。
その内容はまず、コリンズ少佐これまでの経歴から始まる。(「1、捕虜本籍住所所属氏名年齢」)
1939年、テキサス州ウォスラヘン大学に入学。
1942年1月から9ケ月、陸軍航空操縦学校に入校。
1942年9月、陸軍少尉に任官。
1942年11月、陸軍中尉に。同時に第371戦闘隊第325戦闘機隊員として北アフリカ戦線に派遣。
1943年9月、大尉。
1943年7月、イタリアのシシリー島航空基地に前進。対ドイツ戦。
1944年12月(1943年の誤りでは?)、アメリカに帰還。
1944年3月から11月、中学卒業の学徒の戦闘機の訓練教官を務める。訓練場所はサンタモニのアーウンドオーバー陸軍基地。
1944年5月、陸軍少佐に。
1944年11月、陸軍航空隊第507戦闘隊編成されると配属。
1945年4月、訓練終了し南太平洋戦線に。島伝いに飛行し7月2日サイパンから沖縄の伊江島飛行場に進出。第507戦闘隊は第463、第464、第465戦闘機隊からなり、学徒訓練の将校のみで編成。兵力150名。P47を111機装備。
(伊江島に来てから作戦行動)
7月3日-B24の48機を護衛して熊本飛行場爆撃。P47は32機出動。
7月5日-B24の48機を護衛して大村飛行場周辺建物爆撃。P47は32機出動。
7月6日-B24の32機を護衛して宮崎飛行場爆撃。P47は出撃機数不明。天候不良のため爆撃できず。
7月7日-機数不明のB24の九州南部地区の空中高空撮影の掩護。
7月8日-機数不明のB24の九州南部地区の空中高空撮影の掩護。
7月10日-B24は出発せず。熊本爆撃に出動せるも、天候不良のため偵察爆撃不能。
(以上は註8)
訊問への答えはまだまだ続く。「2、捕虜ノ経歴及軍隊入隊後ノ経歴」、「3、編成」「4、沖縄伊江島飛行場到着後ノ出撃状況」「5、伊江島飛行場ノ状況」「6、沖縄ニ於ケル空軍ノ状況」「7、沖縄進攻機ノ装備性能」「8、沖縄進攻航空敵兵員ノ状況」などの軍事情報はもちろん、さらには「9、国内航空教育ノ状況」「10、沖縄進駐航空士ノ士気ノ状況」「11、国内国民生活ノ状況」「12、留守宅渡ノ制度ノ状況」にまで及んでいる。
詳細は割愛するが、書類には少佐の部隊の基地がある伊江島飛行場の様子が図面付きで記されている。図には宿舎・燃料弾薬集積地区の場所、滑走路の長さ、航空機の数などが記されている。航空偵察でも調べられる内容ではあるが、ここまで話してもいいのかと思ってしまう。他には7月10日現在の沖縄の空軍兵力、搭乗員の日常生活(食事・スケジュール・慰安など)についても答えていたり、伊江島飛行場の弾薬燃料は逐次補給あり十分にあるが、今後輸送が途絶しても一週間分は保有している、とも述べている。
興味深いところでは、捕虜になることへの考えを聞いている。少佐は「最全ヲ盡シ已ムヲ得ザルニ至レバ敵ニ降ル相応ノ待遇ヲ受クルヲ当然トス」(註9)と答えている。捕虜になるよりも死を選べと教えた日本軍とは正反対の考え方である。また「墜落時飛行艇ニテ救援ニ関スル件」に対しては、「生命ハ愛スレド死ハ怖レズ」と答えている。当時の日本人の間にはアメリカ人は物量に頼るだけで、精神的には日本人の方が優っているという考えが広まっていたが、実際には決してそうではなかった。不時着した場合には救助作業を行うなど、むしろ人命に対する配慮がなされているからこそ、「生命ハ愛スレド死ハ怖レズ」なのである。少佐の持ち物の中に支那紙幣が含まれているのも、中国で撃墜された場合を考慮してのことで、人命尊重に由来するものであろう。
沖縄戦中、徳之島にはコリンズ少佐も含めて3人の米捕虜がいたことが知られている。
このうち1人は捕虜になった間も無く徳之島で胃潰瘍のため死亡した。その他のコリンズ少佐を含む2人は戦後アメリカに無事帰国した。独立混成第64旅団では旅団長の高田利貞少将の方針で捕虜を丁重に処遇した。そのため敗戦後も徳之島からは1人も戦犯を出すことなく、2人は沖縄に帰る時に高田少将宛に感謝の手紙を残したという。(註10)徳之島でコリンズ少佐は日光浴を希望し、その希望に応えて旅団では農耕を行わせていた。(註11)
コリンズ少佐は戦後アメリカに帰国すると、捕虜になった時の負傷に対して名誉戦傷章を授与された。そしてアメリカ空軍の最初のジェット機の開発計画に携わり、そのテストパロットを務めた。その後アメリカ国内はもちろん、ヨーロッパや日本の航空部隊の指揮官や司令を歴任した。その後F-4Cファントム鏡鐺機を最初に装備した部隊の司令官にもなっている。ペンタゴンで空軍本部の戦術部門首席作戦スタッフ代理として3年在席したのを除けば、現場の部隊指揮官の職が長かったようだ。軍を陸軍准将で退役したコリンズ少佐は2000年に亡くなった。少佐が優秀なパイロットであったことは、ヨーロッパ戦線でカイロ会談に向かう連合国首脳の護衛を担当したことからも分かる。撃墜数は9機を数えるエースパイロットである。ちなみにヨーロッパで同じ部隊にいたチャールズ・H・マクドナルド大佐は(Charles H MacDonald)は27機撃墜のアメリカ軍では4番目のエースである。(フィリピンで戦死。)
(註1)特操一期生史会編『特別操縦一期生史』(特操一期生会 1989)P223
(註2)防衛研究所図書館所蔵『俘虜ニ関スル書類綴 独混64旅団司令部(返還資 料)』
(註3)前掲註2
(註4)前掲註2
(註5)前掲註1 P223
(註6)前掲註1 P223
(註7)前掲註1 P224~225
(註8)前掲註2
(註9)前掲註2
(註10)髙田利貞『運命の島々 あま美と沖縄』(京都報徳会 1956)P209~ 210
(註11)前掲註10 P211