二三日、輸送機一機(零式水偵二機?)が、午後七時三〇分に古仁屋に到着した。(0000036945 古仁屋空軍基地③ 二八、三四頁)電文が乱れているが、古仁屋への作戦輸送に従事していた零式水偵の可能性が高いだろう。電文の宛先に鹿児島基地と博多基地が含まれているので、おそらく六三四空の所属機だろう。
二五日には、午前一時五七分発信の電文で、古仁屋基地が輸送機五機の出発を伝えている。(0000036945 古仁屋空軍基地③ 七頁)輸送任務に飛行艇が複数で飛来することは考えにくいので、これも零式水偵であろう。この電文の宛先は佐世保基地になっているので、これは九五一空所属機である、
二八日、機数不明の輸送機が午前零時一五分に古仁屋を発進した。(0000036944 古仁屋空軍基地② 一六一頁)電文の宛先が佐世保鎮守府と佐世保防備部隊になっているので、これも九五一空所属機の可能性が高い。
二九日、午前二時五〇分に鹿児島基地から古仁屋基地へ、零式水偵二機が発進した。(0000036944 古仁屋空軍基地② 一四六頁)鹿児島基地を出発しているので、六三四空の所属機である。
三〇日、午後六時三〇分に指宿基地から古仁屋基地へ、零式水偵一機が発進した。(0000036944 古仁屋空軍基地② 一三六頁)指宿基地を出発しているので、六三四空の所属機である。
零式水偵の主な任務は作戦輸送だったが、沖縄への攻撃任務に従事した場合もあった。六三四空の古仁屋派遣隊指揮官は、六月一日には四機、二日には五機の零式水偵に対して、沖縄攻撃のために発進するように命じている。(0000036944 古仁屋空軍基地② 一一八、一二三頁)四月にも何回か零式水偵が実際に沖縄攻撃に投入されているが、その数は少数に止まっており、沖縄攻撃の主力はあくまでも瑞雲だった。六月の二日間の出撃も他の資料には、沖縄攻撃を裏付けるものはなく、実際に行われた可能性は低いと考えられる。
六月二日、二式練習飛行艇(以下、二式練艇と略す。)一機に古仁屋基地への作戦輸送が命じられた。計画では二式練艇は鹿児島基地から指宿基地に移動し、午後七時に指宿基地に到着する。燃料補給後、午前零時に指宿基地を出発し、午前二時に古仁屋基地に到着し、午前三時に古仁屋基地から鹿児島基地への帰路に就くというものだった。(0000036944 古仁屋空軍基地② 八四頁)電文の発信元が小富士基地になっているので、二式練艇は六三四空の所属機である。
その後作戦輸送は三日に延期され、三日午後七時に二式練艇は指宿基地に到着した。(0000036944 古仁屋空軍基地② 七〇、九二頁)さらに輸送作戦は四日に延期され、結局四日の午前七時四五分に二式練艇は古仁屋基地に到着している。(0000036944 古仁屋空軍基地② 六九頁)
この二式練艇が古仁屋基地に到着して僅か五時間後には、新たに別の二式練艇による作戦輸送の実行が計画され(0000036944 古仁屋空軍基地② 六五頁)、午後六時五分には作戦の実施が翌五日に延期された。(0000036944 古仁屋空軍基地② 五七頁)二式練艇は練習用の飛行艇とはいえ、零式水偵よりも多くの人員・物資を運ぶことが出来る。作戦輸送しては効率的だっただろう。
五日には、水上機五機が佐世保基地から古仁屋基地へ、午後六時以降に出発した。これらのうち四二号と四三号は、先に古仁屋基地に到着した。だが四〇号、四五号と五〇号は、遅くなって古仁屋基地に到着したようだ。(0000036944 古仁屋空軍基地② 四九頁)佐世保基地を出発しているので、これらの水上機は九五一空の零式水偵である。九五一空も古仁屋基地への作戦輸送を引き続き続けていたのである。
七日、午後五時五〇分(?)に、零式水偵一機が小富士基地を出発した。(0000036944 古仁屋空軍基地② 三六頁)電文に目的地は明示されていないが、電文の宛先が古仁屋なので、目的地は古仁屋だろう。この機は六三四空所属と思われる。
八日、零式水偵(SA―四〇号)は、午後一〇時までには到着しなかった。(0000036944 古仁屋空軍基地② 二二頁)、九日午前一時八分に佐世保空基地が打電した電文では、零式水偵一機(四〇号)が戻ったと報告している。(0000036944 古仁屋空軍基地② 一五頁)佐世保を出発した九五一空の零式水偵(SA―四〇号)は古仁屋に向かったが、引き返して佐世保に戻ったようだ。このSA―四〇号とは、六月五日に登場した四〇号機のことだろう。
八日は五機が古仁屋に向かったようで、残る四機は無事に古仁屋に到着し、九日の午前三時五分(?)には佐世保へ発進した。(0000036944 古仁屋空軍基地② 一八頁)これらの機も九五一空所属機である。
一〇日にも、零式水偵二機(五〇号と番号不明号)が、午後九時一〇分に古仁屋に到着した。(0000036944 古仁屋空軍基地② 三頁)おそらくこの五〇号ともう一機は、五日に古仁屋輸送を行った機と同一の九五一空所属機である。先述の笹岡さんはこの日も古仁屋輸送に参加している。(註1)
一七日、二式練艇一機が、午前五時二〇分に古仁屋から小富士基地へ出発した。(0000036943 古仁屋空軍基地① 一五三頁)六月半ば頃、古仁屋で負傷入院していた偵三○二の橋本喜三上飛曹は、佐世保から飛来した二式練艇に乗って、六名の不時着搭乗員と共に帰還している。(註2)時期的に見て、一七日の二式練艇の可能性が高いと思われる。
二式練艇が何を輸送したのかは、米軍が傍受した電文でもよく分からない。六三四空飛行長の古川明少佐は、二式練艇による古仁屋輸送を回想しているが、ビタミン不足を補うために内地から大量の夏みかんを送ってもらったと述べている。(註3)零式水偵の運べる量は僅かなので、大量の夏みかんというイメージは二式練艇の方がふさわしい気がする。
こうした一連の古仁屋基地への作戦輸送は、具体的にはどの程度の効果があったのだろうか。数を把握しやすい二五〇キロ爆弾で見てみよう。沖縄本島に米軍が上陸した四月一日には、古仁屋には僅か二〇発の二五〇キロ爆弾しかなかった。(註4)それが五月一一日時点の保有量は、少なくとも一六〇発増加していた。(註5)六月二七日時点でも、二五〇キロ爆弾は四五発の保有が確認できる。(0000036943 古仁屋空軍基地① 八四頁)
実際には四月から六月末までの間に、古仁屋を中継基地として使用した瑞雲が二五〇キロ爆弾を使用しているので、現実の輸送量は一四〇発を大きく上回ることになる。五月一一日以降も爆弾の空輸は続いており、陸軍第第四三二振武隊の菅井薫軍曹が、六月一六日に佐世保基地から古仁屋基地へ二五○キロ爆弾を空輸したのを目撃している(註6)ので、輸送が続けられていたことは間違いない。
米軍も五月二〇日の報告で、「南西諸島からの作戦輸送の代表的な特徴は、古仁屋基地の卓越と鹿児島基地との関連」(0000036945 古仁屋空軍基地③ 六二頁)と述べ、五月二五日の報告でも、「南西諸島からの作戦輸送で異常は見つけられない。古仁屋と喜界島基地が突出している」(0000036945 古仁屋空軍基地③ 九頁)と述べている。古仁屋への作戦輸送は、それだけ粘り強く続けられたのである。
二式練艇の飛来後、古仁屋への作戦輸送はしばらく途絶えている。二八日、零式水偵による古仁屋作戦輸送が計画されたが、悪天候のため中止された。(0000036943 古仁屋空軍基地① 七九頁)中止を命じる電文の発信が鹿児島県の牛根(桜島)基地らしいので、六三四空が計画した輸送と考えられる。
(註1)笹岡義重さんからの筆者宛て書簡より
(註2)橋本喜三『昭和の一兵卒』(私家版 一九九八) 七五~七六頁
(註3)古川明「沖縄の星となった最後の“瑞雲”水爆隊」(『丸』昭和一九七一年一〇月号 潮書房 所収) 一〇三頁
(註4)防衛研究所戦史研究センター所蔵『参考電報綴 S二〇・三~二〇・五 3/4』 機密第〇一〇九〇五番電
(註5)防衛研究所戦史研究センター所蔵『南西諸島電報綴 其ノ1 S二〇・五』 機密一一一八三五番電 五分ノ二、四
(註6)菅井薫「南西の海原に還らぬ戦友たちの慟哭をきいた!」(『丸』一九九一年一〇月号 潮書房 所収) 二五九~二六〇頁