鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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    かつて徳之島天城町の多賀屋旅館に保存されていた宿帳は、太平洋戦争中に旅館に宿泊した軍人・軍属等の揮毫が少なくとも二九九名分書かれている。宿帳の九頁目に、球部隊飛行班として成田久蔵准尉。田代善八軍曹・上田良孝軍曹の三名の名前がある。

 球部隊とは沖縄本島に司令部を置いた、陸軍第三二軍のことである。飛行班が具体的にどのような部隊かは不明である。どの飛行場に基地があったかも不明だが、一九四四年一一月一六日に飛行班の定位を沖縄中飛行場に変更している。(註1)

ただ宿帳の八頁にある第三二軍司令部の茶屋本政次大尉が、一九四四年七月二一日に徳之島に出張しているが(註2)、飛行班の三名の名前はその直後の頁である。茶屋本大尉の徳之島出張に際し、三名の操縦する飛行機が使用された可能性がある。おそらく飛行班は軍司令部の参謀や将校を出張等の際に、飛行機に乗せるのが任務だったのだろう。飛行班が三名なので、単発機ではなく双発機だろうか。単発機の場合は複数機だろう。

 ところが第三二軍司令部の留守名簿には、宿帳の飛行班の隊員の氏名は見当たらない。似たような部隊名である台湾軍司令部飛行班の根岸正平兵長は、同軍司令部の留守名簿に名前が載っている。同じ飛行班でも扱いが異なっていたようだ。

 球部隊飛行班についてまとまった資料はないが、断片的な資料が確認できる。一九四四年一〇月一〇日の一〇・一〇空襲で、軍飛行班の新垣准尉・熊田軍曹・梶原一等兵が空襲により戦死した。(註3)この三名も第三二軍司令部の留守名簿に名前がない。

藤田忠雄曹長と磯野義丸曹長は一九四五年三月三〇日の命令で、飛行班から参謀部航空事務室に勤務を命じられている。(註4)藤田忠雄曹長は、後に神直道航空参謀と一緒に沖縄本島から本土への脱出に成功した人である。

 この二名のうち藤田曹長は第三二軍司令部の留守名簿に名前がある。ただし前所属欄に「第三十二軍司令部飛行班」とあるので、飛行班が第三二軍司令部とは別の部隊であったことが明らかである。藤田曹長については「神参謀ト共ニ」とあるので、神参謀の沖縄脱出に同行したために、特に追記された可能性が高い。

 他にも飛行班の存在を思わせる資料がある。一九四四年七月二三日に、東京に出張する第三二軍司令部の林忠彦少佐他を乗せた軍偵察機が、静岡県御殿場の山に激突して四名が死亡した。(註5)林少佐ともう一人の建技少佐は便乗者だろう。残る久留内道男曹長と須賀勝次軍曹は搭乗員の可能性が高いと思われる。軍偵察機ということなので、二名の下士官は飛行班の可能性がある。

 一九四五年一月一三日に、先述の磯野義丸曹長が、川島太一曹長と共に第三二軍の参謀部に転入している。二人とも陸軍飛行学校附からの転入(註6)なので、初めての実施部隊への配属であろうか。川島曹長は磯野曹長と同時に転入しているので、彼も飛行班の可能性がある。

 宿帳の三名のその後は分からないが、米軍上陸時に沖縄本島に留まっていれば、同様に参謀部航空事務室に勤務を命じられただろう。その場合は最終的に沖縄本島南部の地上戦に巻き込まれたと思われるが、はたして生還できただろうか。

 

 註

  1防衛研究所戦史研究センター所蔵『第三二軍陣中日誌(案) 昭和一九年三月二七日~昭和二〇年一月三一日』 二一五九頁

  2前掲註1 二〇九五頁

  3前掲註1 二一三八~二一三九頁

  4防衛研究所戦史資料センター資料室史料室所蔵『第三十二軍司令部日々命令綴 S二〇・三・二九から二〇・五・二二 

   第三十二軍司令部参謀部航空』 一五四一頁

  5前掲註1 二〇九六頁

  6前掲註1 二一八三頁