鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

ヤフーブログから移行しました。随時更新していいきますので、よろしくお願いします。

 七月一日午後六時五九分の電文で、零式水偵一機らしき機が牛根基地から古仁屋基地へ発進した。(0000036943 古仁屋空軍基地① 六〇頁)午後六時五九分以前に、この機は発進していたことになる。この後、午後一一時三〇分頃にも、零式水偵一機が牛根基地から古仁屋基地へ発進した。(0000036943 古仁屋空軍基地① 六一頁)牛根基地発進なので、二機とも六三四空所属機である。

 四日、零式水偵三機が、午後五時に玄界基地から古仁屋基地へ出発した。(0000036943 古仁屋空軍基地① 五一頁)玄界基地を出発しているので、六三四空所属機である。偵三〇二の藤田政保上飛曹の航空記録には、この日に古仁屋への作戦輸送を行ったことが記されている。(註1)

 五日、六三四空の三機が午後七時に、玄界基地から古仁屋基地へ上昇(?)した。(0000036943 古仁屋空軍基地① 四四頁)七月のこの時期に、瑞雲が古仁屋に進出することは考えられないので、零式水偵による古仁屋作戦輸送と判断していいだろう。

 一〇日、六三四空司令の命令で、夜に予定されていた古仁屋作戦輸送が中止された。(0000036943 古仁屋空軍基地① 三七頁)

 一五日、午後五時一五分に零式水偵二機が、玄界基地から古仁屋基地へ出発した。(0000036943 古仁屋空軍基地① 三一頁)これも六三四空の所属機である。

 七月に入って古仁屋作戦輸送は、すっかり恒例化した印象がある。だが一五日付で古仁屋基地は、基地に残る九五一空の残留員ともども大島防備隊司令の指揮下に入った。古仁屋基地に残留したのは奥谷一三六少尉以下、下士官二名と兵八名と定められた。これ以外の隊員は潜水艦で転進するよう、防備隊司令は要請していた。(註2)

 つまり七月に入ってからの古仁屋輸送は、四月当初とは異なり、古仁屋基地撤収のためのものだった可能性が高い。輸送品目としては、行きは米軍の奄美上陸に備えての武器・弾薬等で、帰りは古仁屋基地の整備員や不時着搭乗員等を便乗させたのだろう。

 一七日、第四〇号瑞雲一機が、午前一〇時三〇分(?)に佐世保基地に到着した。(0000036943 古仁屋空軍基地① 二六頁)出発場所は不明だが、電文の宛先が熊本県の天草基地と古仁屋基地になっているので、古仁屋基地と考えるのが自然だろう。天草基地は佐世保基地到着前の中継基地の役割だろう。

 電文では機種が瑞雲になっているが、佐世保基地に到着していることから、零式水偵の誤りの可能性が高いと思われる。さらに想像を逞しくすれば、六月八日に古仁屋作戦輸送に従事した九五一空の零式水偵(SA―四〇号)ではないだろうか。

 先述の九五一空の笹岡さんは、七月一七日にも古仁屋輸送で飛行したと回想している。(註3)笹岡さんは七月二七日に九五一空から六三四空の玄界基地に派遣されて、零式水偵による雷撃訓練を受けることになる(註4)ので、これが最後の古仁屋作戦輸送となった。

 一八日、零式水偵一機(第一一二号)が、午前八時五分にどこかに到着した。(0000036943 古仁屋空軍基地① 二五頁)この電文も乱れていて発信者は不明で、宛先は天草基地と古仁屋基地になっている。おそらく到着地は玄界基地または佐世保基地で、出発地は古仁屋基地だろう。所属部隊は判断できない。

 この日一八日午前四時一五分に古仁屋基地を大島輸送隊に従事中の一機が発進帰投した。九五一空の日比野昇大尉機である。同機はそのまま行方不明となり、その後夜間戦闘機と交戦して戦死したと認定された。(註5)先述の一機と相前後して古仁屋基地を発進したのだろう。

 二二日、六三四空の零式水偵三機が、午後五時三〇分に作戦輸送で玄界基地から古仁屋基地へ出発した。(0000036943 古仁屋空軍基地① 一三、一五頁)先述の偵三○二の藤田上飛曹は七月二二日に古仁屋作戦輸送に従事している。(註6)

 二四日、佐世保鎮守府から九五一空に、四月二七日の佐鎮信電令第一一〇号で命じた古仁屋輸送の中止が命じられた。(0000037046 古仁屋 六五頁)直前の二二日と二三日の両日、九七式飛行艇が古仁屋基地へ飛来して、古仁屋で救出の便を待っていた不時着搭乗員を救出した。(註7)

 飛行艇の派遣で古仁屋基地からの撤収が終了したため、九五一空の古仁屋作戦輸送は役割を終えたため、打ち切られたのだろう。六三四空の古仁屋作戦輸送がどうなったかは不明だが、こちらもほぼ同時期に終了したと考えられる。

 はじめは沖縄戦での古仁屋の中継基地としての機能を維持・強化するために、古仁屋作戦輸送は始まったと考えられる。整備員や搭乗員が零式水偵や二式練艇に便乗し、積荷は整備道具等の小物や食糧品、そしてついには二五〇キロ爆弾まで運ぶようになった。沖縄戦が日本軍に不利になり、次は奄美への侵攻が予想されるようになると、奄美守備隊向けの陸戦兵器や弾薬が積荷に加わった。

 日本軍の資料では断片的な様子しか分からなかったが、米軍資料を詳しく見ることによって、零式水偵を中心に多くの機が、九州・台湾と古仁屋基地との間を行き来していたことが明らかになった。彼らの地道かつ持続的な働きがあって、はじめて古仁屋は中継基地としての機能を維持することが出来たのである。

 

(註1)『玄界基地の碑建立記念』(海軍航空隊玄界基地記念碑建立発起人会 二〇〇三) 三一頁

(註2)防衛研究所戦史研究センター所蔵『大島防備隊戦時日誌 S二〇・七』 一四四、一四五頁

(註3)笹岡義重さんからの筆者宛て書簡より

(註4)十期雄飛会『とんぼ』(同会 一九八三) 一九四~一九五頁

(註5)国立公文書館所蔵『中央・戦没者ノ件報告(航空隊)九〇〇~一〇〇〇台』

(註6)前掲註1 三一頁

(註7)防衛庁防衛研修所戦史室『沖縄方面海軍作戦』(朝雲新聞社 一九六八) 五八七頁