五月二日、第三海上護衛部隊の零式水偵三機に対し、作戦輸送が命じられた。計画は同日午後一一時に佐世保基地を発進し、午前一時三〇分に古仁屋基地に到着、午前三時には古仁屋基地から帰途に就くというものだった。積荷は便乗者二名と、爆弾と魚雷を装備する道具だった。(0000036945 古仁屋空軍基地③ 一二一頁)作戦輸送は二日に計画されたが、実際に実行されたのは三日だったらしい。(0000036945 古仁屋空軍基地③ 九九頁)
三日の古仁屋輸送に参加したのが、九五一空の笹岡義重さんである。笹岡さんは古仁屋基地への武器・弾薬の夜間輸送を行っているが(註1)、参加した三回のうち一回が五月三日だと証言している。輸送の際は概ね二機乃至三機で、単機で夕刻前に佐世保航空隊(私註、九五一空のこと。)を出発して古仁屋基地で一泊し、夜明け前に古仁屋基地を発進して佐世保航空隊に帰投するというものだった。(註2)
第三海上護衛部隊は、一九四四年(昭和一九)五月二〇日、東京湾と大阪湾航路の船団護衛を担当するために編成された部隊である。九州方面を担当していたのは第四海上護衛部隊なので、これは米軍の電文の解読間違いの可能性が高い。笹岡さんの証言も合わせると、佐世保基地から発進しているので、五月三日はやはり九五一空所属機である。
便乗者はおそらく、零式水偵の座席の空きスペースに乗ったのだろう。乗るのは基本的に一機に一人だろう。九州から奄美に赴任するということは、便乗者は古仁屋基地の基地員もしくは、大島防備隊に配属を命じられた人員だろう。
ちなみに古仁屋基地には奄美諸島各地に不時着した陸海軍の搭乗員が集まっていた。彼らのうちの多くが、古仁屋基地発の零式水偵で九州に帰還している。
六月七日に知覧基地から出撃した陸軍第六三振武隊の中沢留吉軍曹は、徳之島に不時着し、その後古仁屋から水偵で福岡に帰還している。(註3)大島防備隊では四月二日に米軍搭乗員一名を捕虜にしているが(註4)、後日航空便で内地に送還している。(註5)零式水偵ではなく飛行艇かもしれないが、捕虜まで輸送するのだから、飛行機による人員輸送は決して珍しくなかったと言える。
便乗者以外の五月三日の積荷は、「爆弾と魚雷を装備する道具」であった。それほど大きなものではなかっただろう。九五一空の零式水偵の積荷については、「零式水偵で毎夜の如く佐世保から機銃、弾薬、手榴弾、擲弾筒等を補給していた」(註6)、「陸戦兵器や暗号書、医薬品、医療関係用品等で、偵察員・電信員席に置けるような嵩張らないものは、運んだかもしれない」(註7)等の回想がある。
だが実際には小さな積荷どころではなく、古仁屋基地で瑞雲が搭載する二五〇キロ爆弾を複数機で輸送していた。(註8)九五一空の零式水偵は、瑞雲が沖縄攻撃を実施するためにとても重要な役割を果たしていたのである。
六日には、六三四空の零式水偵一機が、午前三時三〇分に佐世保基地を出発した。(0000036945 古仁屋空軍基地③ 一一五頁)同じ日の午前一〇時台にも、六三四空の零式水偵一機がどこかに到着し、午後五時には古仁屋基地に出発する予定だった。おそらくこれも作戦輸送の一環だろう。
またこの日から、九五一空の「佐世保古仁屋間作戦輸送ヲ月齢ノ関係上五月十八日迄中止」(註9)された。おそらく月が明るくなり、米軍機に発見される可能性が高くなったため中断したのだろう。
九日には、六三四空の零式水偵(司令搭乗)が、午後五時三〇分に佐世保基地から古仁屋基地に出発した。(0000036945 古仁屋空軍基地③ 一〇八、一〇九頁)六日に、台湾の海軍第一航空艦隊は、六三四空司令江村日雄中佐に対し「古仁屋基地ニ進出同地ニ於テ作戦指揮ニ任ズルト共ニ同基地機能ノ維持活用対策ヲ研究報告スルト共ニ所要ノ措置ヲ講ズベシ」と命令していた。(註10)
この命令を受けて江村司令は古仁屋に進出したと思われる。進出し日時ははっきりしないが、五月一一日に古仁屋基地に不時着した水上機の特攻機について、古仁屋基地から詫間海軍航空隊(以下、詫間空と略す。)に電文が打たれているが、発信者は六三四空司令となっている。(註11)このことから、江村司令は遅くとも一一日には古仁屋基地に進出していたことになる。
ただし佐世保基地から出発しているので、江村司令は台湾から直接古仁屋基地に前進せず、一端九州に移動して、そこから古仁屋基地に進出している。理由は不明だが、九州(おそらく佐世保鎮守府)で、何かの打ち合わせを行ったのではないだろうか。
一八日、予定通り古仁屋作戦輸送は再開されることになった。零式水偵三機が午後七時に佐世保基地を出発し、午後九時三〇分に古仁屋基地に到着し、午後一一時に佐世保基地に向けて飛び立つ予定だった。(0000036945 古仁屋 八一頁)
実際に一八日には、零式水偵一機が佐世保基地から古仁屋基地に午後四時に出発した。(0000036945 古仁屋空軍基地③ 八五頁)これは先ほどの計画とは時間が異なり、電文の発信が六三四空なので、六三四空の所属機の可能性が高い。六三四空所属機が、佐世保基地を使用することは非常に珍しい。六三四空の古仁屋作戦輸送も、九五一空と同じく月齢の関係で中断されていたのだろう。
二一日午前一〇時四五分、偵三〇二飛行隊長の伊藤敦夫少佐は詫間空司令から、九七式大艇による奄美輸送と不時着搭乗員救出を、二五日に実施するように命じられた。計画では二四日に香川県の詫間基地を出発し、福岡県の小富士基地を経由して長崎県の大村基地に移動する。その後二五日午前二時に大村基地を出発し、午後一一時に古仁屋基地に到着し、翌二六日午前四時に大村基地に帰投するというものだった。行きには偵三〇二の基地員二〇名を乗せて、帰りの便で不時着した搭乗員を収容する予定だった。(註12)実際には小富士基地は地上基地なので、近くの玄界基地のことを指すのだろう。
だがこの作戦は、結局実施されなかった。二一日午後一〇時四九分に、偵三〇二飛行隊長は、整備員二〇名を二二日に指宿基地へ前進させるように命じている。(0000036945 古仁屋空軍基地③ 四八頁)この整備員二〇名とは、九七式大艇で輸送するはずだった基地員二〇名のことだろう。その日の内に作戦は中止されたことになるが、おそらく数少ない貴重品となっていた、飛行艇のやり繰りがつかなかったのではないだろうか。
二二日午後五時一五分、指宿基地から零式水偵二機が古仁屋基地へ出発した。二機に便乗していたのは「部隊指揮官と航空部隊指揮官」だった。(0000036945 古仁屋空軍基地③ 四七頁)この二人はおそらく、六三四空司令の江村中佐と偵三〇二飛行隊長の伊藤少佐だろう。
先述のように江村司令は、六日からそれほど遠くない時期に、古仁屋基地に進出している。ただ司令は五月二〇日には九州の玄界基地にいたという証言もある。(註13)どうも司令は九州と古仁屋基地の間を行き来していた可能性があるようだ。
一方の伊藤飛行隊長は、五月二四日に司令より古仁屋進出の命令を受け、司令が内地に引き上げるまでの約十日間その下で作戦に従事したという。(註14)だが実際に伊藤飛行隊長が古仁屋進出の命令を受けたのは、二一日以前のようだ。二一日に伊藤飛行隊長は、天候不良のため自分の機を含め八機が、指宿基地などで古仁屋基地進出のため待機中だと、江村司令宛に電文を打っている。(註15)とすると、二二日の古仁屋進出は、天候回復を待ってのものだと理解できる。
(註1)十期雄飛会『とんぼ』(同会 一九八三) 一九四頁
(註2)笹岡義重さんからの筆者宛て書簡より
(註3)原町飛行場関係戦没者慰霊顕彰会編『あかねぐも 第一集』(同会 一九七九) 二二九頁
(註4)防衛研究所戦史研究センター所蔵『大島防備隊戦時日誌 S二〇・四』 一七二七頁
(註5)防衛研究所戦史研究センター所蔵『沖縄方面帰還報告』
(註6)『わが町の戦中戦後を語る(思い出の体験記録集)』(瀬戸内町中央公民館 一九八九) 一四三頁
(註7)前掲註2
(註8)菅井薫「南西の海原に還らぬ戦友たちの慟哭をきいた!」(『丸』一九九一年一〇月号 潮書房 所収) 二五九~二六〇頁
(註9)防衛研究所戦史研究センター所蔵『参考電報綴1/3 S二〇・五~二〇・七』 機密第〇六一六三一番電
(註10)前掲註9 機密第〇六二三二九番電
(註11)防衛研究所戦史研究センター所蔵『北浦海軍航空隊戦闘詳報』、『詫間海軍航空隊戦闘詳報』
(註12)防衛研究所戦史研究センター所蔵『南西諸島電報綴 其ノ2 S二〇・五』 機密第二一一〇一五番電 二分ノ一、二
(註13)梶山瑞雲『瑞雲飛翔』(私家版 二〇〇二) 三二五頁
(註14)伊藤敦夫「水爆「瑞雲隊」暗夜のオキナワ突入記」(『丸』一九八四年一二月号 所収) 一二〇頁
(註15)前掲註12 機密第二一一三〇〇番電