注・本内容は以下記事の補論にあたります。

 

 

 

 

すみませんね……今までFacebookに集中してたもので、Facebookをしてない(見れない)信者さんがおられるのを想定してなかったのです……

本当にごめんなさい~~~~!

(´;ω;`)

というわけでこれからブログにも書いていくので許してくださいまし。

みなさんがついてこれるように頑張るので!

m9( ゚Д゚) ドーン!

 

 

あと、なにやら妙な話を聴いたので重要なお知らせ。

 

 

 

えーと、一部でホツマツタエの内容を

「人と人との間に生まれた普通の人間」

とする説明があるみたいなんですが

そんなことは全くありません!!(大事なのであえて強調)

 

あくまで創造神「アメミヲヤ」(天御祖神)と比べて、

アメミヲヤを「神」とした時の「人間」という話であって、

それだけアメミヲヤへの絶対信仰が確立されてる。

あくまで創造神「アメミヲヤ」に対して遜(へりくだ)った書き方をしてるわけです。

 

天御祖神信仰によって日本を都度衰退から守ってこられた、尊い高級霊の生まれ変わりの皆さまだったと思います。

内容読めば分かるでしょー!!

ホツマツタエ読めばアマテル神などは普通に総裁先生のご分身としか思えないですし。

どうか語られてる教えや徳の御姿で見てみてー!

 

(おたふくが「女神・天照大神」を名乗ってる=アマテル信仰を乗っ取ってる時点で、アマテル神はメシア相当です。

おたふくはメシア信仰を乗っ取ってきたカッコウって言ってたでしょ!)

 

 

 

 

 

 

というわけで本題。

 

 

まずおさらいしますね。

 

今日本で神道正史として権威を持ってるのは古事記です。

(でも本当は古事記にも著しく疑義が唱えられてるのは、すでに本論で触れてる通り)

この古事記は、当時の天皇家が、天御祖神信仰を乗っ取り、自分達に都合のいい神道に換骨奪胎するための、

悪意に満ちた創作でした。

 

これを証明するのがホツマツタエというわけです。

 

 

古事記勢力によるホツマツタエ批判の代表的な意見として、

「ホツマツタエは江戸後期の創作」

という意見があります。

 

 

ウィキペディア ホツマタエ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B1

>成立の経緯と作者について

吉田唯は、同書の成立を江戸時代後期にあたる安永年間(1772年 - 1781年)のことと推測している。これは、安永9年(1780年)に僧侶・溥泉が記した『春日山紀』(京都大学附属図書館所蔵)に、『ホツマツタヱ』の後世の写本と同様の記述が引用されているからである。『春日山紀』を読む限り溥泉は真言宗の僧侶であるようであるが、彼の肩書は著作によって異なっており、吉田は「諸宗兼学であったとみるほうがよいのかもしれない」とまとめている。

日吉神社本『ホツマツタヱ』には『日本書紀』巻五に表れ、大三輪氏の祖とされる大田田根子によるとされる序が書かれている。また、同書の記述によれば、この写本はその子孫を称する人物である和仁安聡(和仁古安聡・和仁估安聡)こと井保勇之進が安永4年(1775年)に翻訳したものである。

 

 

じゃあ

「本当にホツマツタエは江戸後期の創作なの?

じゃあ江戸後期以前はなかったんですよね?」

という疑問をもった神詩会有志の皆さまが、調べられた結果発見されたのが、以下の情報でした!!

 

 

いや、これ本当にすごいんですよ。

というわけで説明していきますね~~。

頑張ってついてきてね!

 

 

 

 

 

①太龍寺 創建793年(太龍寺縁起が書かれたのは10~14世紀

 

空海上人からの伝承と伝わる「太龍寺縁起」の内容は、ホツマツタエをベースにしているとしか思えない内容となっている。

(ここに関してはあまりにも重要なので別記事で説明します)

 

 

 

②津峰神社 創建は元亀元年なので1570年。16世紀後半

 

神紋が八角紋。ホツマツタヱの八皇子、トホカミエヒタメの象徴である可能性がある。

(野崎注・八方位を重視するのは中国の道教由来が定説だが、そもそも道教は本論で触れてるように日本発祥。ホツマツタエがその元。ホツマツタエでは「トヨカミエヒタメ」の八方神が重要神として出て来る)

津峰神社のご祭神は賀志波比賣大神(かしはひめのおおかみ)。

柏(かしわ)は、大川隆法総裁先生に縁あり、城南高校の校章は柏に松、商社時代の寮は千葉県の柏市(通称・柏寮)。

 

 

 

③日峰神社 創建751年

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%B3%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 

祭神は「大日霊貴神」で、女偏の「孁」ではない。ホツマツタヱのアマテル(大日靈)と思われる。

(野崎注・本論で触れているが、アマテル神の別名だった「大日靈」を「大日孁」にして女神と思わせるようにしたのは蘇我馬子であり、姪推古天皇のためだったと、歴史考証家の大月如電が「考証古代日本史」に記している)

 

 

 

④天津神社 創建年不明

 

天上地下の神二柱、常世としての八方の神八柱、年量の神二四節の神二十四柱がホツマツタエと重なる

※古事記では、伊耶那岐と伊耶那美の二柱の神が一緒に生んだのは全部で14の島々と35柱の神々なので、この数は古事記ではない。八柱の神はいるが、方位とするのはホツマツタヱ。

フトマニ図の中心の内向きの八柱を方位として、外向きの2周、8+16を足して24にして伝わったと思われる。

こんな偶然ありますか?

 

 

⑤西照神社

 

・西照神社(廃仏毀釈の時に、大瀧寺から分かれ新たに創建された)

月読を祭神として祀る。月読は四国の領主だった。

※月読の息子のイブキドヌシが、シラヒト・コクミを討伐した手柄として、アマテルより、讃岐の領土と阿波のイブキ守の称号を与えられている。

※西照神社の社記は、月読が九州と四国を統治し、宗像三女神の部族を引き連れて伊予から阿波に来たとされている。これは、ホツマツタヱの史観をベースにしなければ記せない。

 

 

 

⑥大瀧寺 創建神亀3年(726)

 

西照大権現を祀る。

空海が弘仁六年再度訪れ祈念をしていると、白髪の翁が忽然と現れ「我是れ汝が遠祖 天忍日命(空海の22代前の先祖)の使いなり」として現れたのが西照大権現。ホツマツタエでは天忍日命はアマテルの息子。

大瀧寺では、西照大権現と月読命は別と解釈している。

(野崎注・幸福の科学では天忍日命は隆一君です)

 

 

 

⑦金丸八幡神社(創建時不明。「1660年に八幡神社として新しく建てられた」社記あり。なのでホツマツタエ創作時と推定される安永年間(1772年 - 1781年)よりも前)

 

盤古伝説の社記と乙子五郎王子の舞が伝わっている。

これは、北・東・南・西・中と5回まわる『剣の舞』を舞い(五方固め)であり、ホツマツタヱでは、和歌姫が養父のカナサキからアワ歌を教わってすぐ尋ねた、東西央南北(キツヲサネ)と重なる。

大川隆法総裁先生によると、中国の創造神・盤古はホツマツタヱにおける天御祖神。

 

 

 

⑧船盡神社 創建時不明 (ただし「船尽神社」、清和天皇の貞観十四年(八七二)十一月阿波国船尽比売神社に従五位下とみえるとあるので9世紀にはすでに神社があった)注・同名神社は徳島県内に四つあります

 

https://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2019/02/24/215109

 

ホツマツタヱでのみ意味が解読できる神代文字の幟旗を継承してきている

対馬文字に似た神代文字。読みは「トホカミエヒタメの神達の裔(すえ)キ(男)阿波の神」で、一字、「ミ」が欠落して伝わっている。神道祝詞の「トホカミエミタメ」、「ミ」が2つは誤り。「ヒ」を残したことでそれを暗号としたのかもしれない。脇町支部のそばにも「鯰の歌碑」というのがあって、これと似た神代文字が使われている。

 

(https://ameblo.jp/tatsumi-99/entry-12875615531.htmlより)

 

 

●金丸八幡神社と船盡比賣神社は、漢字、ひらがなが出来る前の時代の公用文字と思われる、神代文字のヲシテ文字ではなく、他の国の創世記や他の神代文字にすることで、阿波にホツマツタヱが継承されていたことを暗号として残したのではないか。

 

 

注・野崎が調べた所、フナト信仰は神山町を中心にして、徳島県下にかなりの影響を及ぼしていたことが分かる。

神山町を中心に、フナト神を祀る祠が2000か所以上存在するという関係者もいる。

>『日本三代実録』の貞観14年(872)11月29 日に、平安京に怪異が発生し、これを静めるために、朝廷が阿波の国所在の「船盡比賣神社」の位を正六位上から正五位下に上げたとの記事があります

何故平安京の怪異で、なぜ阿波の船盡比売神社に位が授けられるのか、不思議ですね~

これ、ほぼほぼ「阿波からの祟り」ってことよね?

https://museum.bunmori.tokushima.jp/fs/5/0/6/_/No128.pdf

関係あるかないか分かりませんが、月読信仰って「月読の霊言」においては五島列島に勢力圏があったとされています。

そしてこの文字は神代文字の「対馬文字」に似てるとされているんですね。

もちろん対馬においても月読信仰が盛んです。

 

 

 

愛媛

 

⑨谷上山宝珠寺 創建596年

古くより農業信仰が盛んで、谷上山は古代は「田神山」と呼ばれていた。愛媛最古の寺院。

宝珠寺の社記に「古代、月読と愛比売が降臨した」(意訳)という記述あり。愛比売とは愛媛の県名の元ともなっている愛媛の女神。

ホツマツタエではツキヨミが領主イヨツヒコの娘イヨツヒメと婚姻し、領主の入り婿として四国を治めていたので、ホツマツタエの記述と合致する

 

 

 

⑩月の陵(みささぎ) 6~7世紀初頭?

 

 

愛媛県指定文化財 記念物(史跡)
伊予岡古墳
伊予岡古墳は伊豫岡八幡神社境内に分布する大小10基からなる古墳群であり、県下でも数少ない曲型的な古墳群である。
総画積は約17000㎡におよび、1400年~1500年前の古墳時代(6世紀~7世紀初頭)に作られたと考えられている。
南西部の1基は「月陵(つきのみささぎ)」と呼ばれている。
「月陵」とその南西部に接して分布している古墳は、ともに古くから前方後円墳といわれているが、正式な調査は行われておらず、現段階では可能性の残る古墳としておくのが妥当であろう。
このほか、社殿の建築・風雨・戦乱等により長年のうちに全壊または半壊され、中には全く原型を留めていないものもある。
前方後円墳といわれる古墳の内部主体は不明であるが、他は横穴式石室を内部主体とする円墳である。
昭和23年10月28日 指定 愛媛県教育委員会

 

>古墳は、本殿の裏から出土した須恵器を元に、6世紀頃にできたと推測されています。
埋葬されているのは、豪族・伊予津彦いよつひこの子孫達だろうと云われています。

 

野崎注・ホツマツタエにおける四国の領主はイヨツヒコで、ツキヨミはイヨツヒコの娘と婚姻しました。つまり「伊予津彦の陵墓に月の陵がある」という事実は、ホツマツタエと繋がります

 

 

 

⑪伊予神社 創建年次不明(延喜式神名帳に記載されるほど歴史が古い)

 

 

延喜式名神大社論社。月読を祀っています。愛媛県において月読が重要神であったことが分かりますね。

 

 

 

香川

 

⑫飯野山(讃岐富士) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%98%E3%82%87%E3%82%82_(%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%8C)

ホツマツタヱにおけるイブキドヌシ(月読の息子)による人工造成山伝承「アメヤマ」と、その記述を裏付けるおじょも伝説。讃岐8富士がそうと思われる。

野崎注・これまでのホツマツタエ~阿波歴史考察により、全国の「ダイダラボッチ」伝説(おじょも伝説はその亜種)は、高確率で天御祖神信仰。

香川の飯野山「おじょも伝説」とイブキドヌシの記述を見るに、

ホツマツタエにおいてニニギが指揮した食糧増産のための農業地造成(イブキドもニニギと歩調を合わせて土地造成に着手した)という一大国家プロジェクトの人心統一に、天御祖神信仰を用いたと考えられる。

つまり全国にある「人工土地造成・河川造成に関わる巨人伝説」は、その土地に本来根付いていた天御祖神信仰が、古事記成立後悪意により妖怪伝説として伝承を捻じ曲げられたもの。

 

 

 

高知

 

⑬月山神社 創建593年

 

野崎注・役行者が月夜見命、倉稲魂命を奉斎したことに始まる。

こちらは霊的験力からも、月読信仰が非常に強く根付いていたことが分かる。

ホツマツタエではツキヨミは四国の領主に入り婿として入っている。

だがツキヨミが「食物神・倉稲魂命」と一緒に祀られているのは古事記的には矛盾があり、ホツマツタエ的にもおかしい。

(ホツマツタエも一部は後世による改竄の形跡が見られる。月読一族だけ異様に情報が少ない。明らかに消されている)

幸福の科学における月読の霊言「農耕神としての月読信仰」が存在した前提でなければ整合性がつかない。谷上山宝珠寺もそう。

つまり愛媛と高知の月読信仰は、正史から完全に消された「農耕神としての月読信仰」をかろうじて護っていた非常に貴重な拝所といえる。

(この食物神としての月読信仰が、後に古事記勢力による「豊受信仰を無理矢理食物神と定義」&月読信仰弾圧という形で消されるわけです。調査の結果元々の豊受信仰も月読信仰の亜種だった)

 

 

 

和歌山

 

⑭丹生都比売神社(創建895年

 

本論でも取り上げているが、空海の神道観は明らかにホツマツタエ史観だった可能性が高い。その傍証ともなる神社。

ご祭神はホツマタエと阿波史で読み解くとすべてツキヨミに関わる一族。

  • 第一殿:丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)
    通称「丹生明神」。古くより祀られていた神。 
    (ホツマツタエのヒルコ。ツキヨミの姉)
  • 第二殿:高野御子大神(たかのみこのおおかみ)
    通称「狩場明神」。高野山開創と関係する神。 
    (ホツマツタエのイブキドヌシ。ツキヨミの息子。高野の地に葬られたハタレの霊達を鎮めたので「タカノ守」の称号を朝廷より与えられている)
  • 第三殿:大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ)
    通称「気比明神」。承元2年(1208年)に氣比神宮(福井県敦賀市)からの勧請と伝える。 
    (阿波史によるとツキヨミの末裔。古事記では阿波の女神として一番最初に出て来る)
  • 第四殿:市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)
    通称「厳島明神」。第三殿と同年に厳島神社(広島県廿日市市)からの勧請と伝える。
    (ホツマツタエにおけるイブキドヌシの妻タナコ)

 

 

 

兵庫県

 

⑮生田神社(創建201年

野崎注・ご祭神・稚日女尊(わかるひめのみこと)は「天照大神の妹神」とされているが、記紀の天照大神に妹神は存在しない。

ホツマツタエでのアマテル神の姉神・ヒルコ(和歌姫)が諸事情から「妹」とされていた。

つまりこの由緒そのものが、ホツマツタエを傍証していると思われる。

 

 

 

 

⑯廣田神社(創建201年

野崎注・ご祭神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)を天照大神の荒魂としているが、そもそも天疎向津媛命が天照大神の荒魂という根拠が記紀にも存在しない。

「さがる天に向かう」とされている時点で日神とは別神。

ホツマツタエにおける日神アマテル神の正后「ムカツヒメ・ホノコ」(通称:瀬織津姫)である可能性が高い。

伊勢神道が瀬織津姫信仰を乗っとる目的で、瀬織津姫=ムカツヒメを「天照大神の荒魂」という位置づけにしたものと思われる。

 

 

 

⑰六甲比命神社(創建年不明)

こちらのサイトに、ホツマツタエにおけるムカツヒメ=瀬織津姫について書かれています。

 

 

 

 

 

他にも探すとまだまだありそうなんですが、読者様からの情報も随時募集しております~~♫

 

 

 

 

まとめ:

 

このように少し調べるだけで、ホツマツタエに繋がる伝承を持つ神社仏閣は数多く出て来きます。

本論の内容も合わせ、「江戸時代後期の創作」とするにはあまりにも傍証となるものが多すぎることがお分かりいただけたかと思います。

むしろ、少し調べれば分かるはずのこれらの傍証が、今まで歴史界から無視・軽視されていたことも含め、あまりにも意図的なものを感じるんですよね

 

しかし「縁起の理法」とは時系列と関係性を過去から観察・分析することによる、より良き未来を拓くための努力論でもあります。

正しき見方こそが正しき未来に通じる。それは個人の人生観も国家観も同じではないでしょうか。

 

そのためにも

「どこで歪められたのか」

「どう歪められたのか」

「本来の歴史とはどうであったのか」

「これから過去の過ちをどう修正し、どう方向性を正していくべきか」

を精査考察することは、国威発揚と日本国の未来にもにも関わる最重要テーマだと思うんですね。

 

当補論がホツマツタエの真実性を世に弘める一助となることを願います。

 

 

 

 

 

 

 

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