灰色の相克(仮題名)

                                         作:おきくら 周(あまね)

No,31

 秋津はアルバムを繰りながら先程の疑問を洋平に訊ねた。「あいつは、本来は私などより遥かに実業家としての才覚を持っておりました。それは、丁度、祖父の栄が、この商売を見事に軌道に乗せて東北を代表する広大なグループホテルとして育て上げたように、むしろそれ以上に今後もグループを発展させていける、そういう人材であろうと私たちも大いに期待していたものでございます」洋平の言葉は時折周りのざわめきに邪魔されるようになっていたが、元々、物言いの活舌が良いので十分に聞き取れる範中には収まっていた。

 

「それは、私が東京の大学を出て父の下でこのグループの経営をいずれ功と共に担うべく、そのための修行として入社後直ぐにグループ傘下の北上市にある温泉ホテルへと出向した頃でしょうか・・・」そう言いながら洋平は秋津の手元のアルバムを2頁ほど進めて左右に開かれたうちの左端に貼られた写真の一枚を指で示した。それはホテルのエントランス付近で撮られたものであろう、ガラスの扉に北上第一ホテルと書かれている。若き日の洋平と思わる青年が、恐らくその出向先のホテルをバックにして傍らの学生服姿の人物と肩を寄せ合って微笑んでいるというごくありふれた写真だった。

 

「その頃、従業員のひとりが収めてくれたスナップです。勿論(弟のアルバムなので)この隣は弟の功で、翌年には大学へと進学するという時期でしたが、このように時折私のもとへも遊びに来ていたものです」洋平の言葉を聞きながら、秋津はふと写真の功が手元に抱えているスケルトンのバッグの中身に目がいった。その表側に覗くノートの形状には見覚えがあったからだった。それは、あの日、佐野家から一時借用して持ち帰った“柳田国男関連についてのノートだった。「ああ、やはり、この頃には既に柳田国男の研究を始めていたのですね」独り言に近いボソリと言った言葉だったのだが、それは洋平にも届いた。

 

「あいつは、どういうわけか柳田については熱心でしたな。休日ともなれば、仲間たちと遠野によく出掛けていましたよ」そう言って再びアルバムの頁を捲った。「これは、翌年の、つまり大学に通い始めたころのものです。大学では当然、経済関連の専攻をするものと思っていたのですが、民俗学・文化人類学コースに行くと聞いた時には・・・」当時の驚きを思い出したかのような洋平の説明を受けながら、引き伸ばされた2枚の集合写真に眼がいった。若いほとばしりが隅々まで行き渡っているような清々しい写真だった。

 

秋津はそれらを見ながら一人一人の表情を検めていたが、この中に見覚えた顔があるのに気付いた。それは、今回、貴司が担当している事件に関わる例の被害者と更にその関係者と目される顔だった。それらの人物写真は捜査対象者として貴司の資料写真から既に閲覧済みのものでもあった。まず、並んだ十数人の人物の前列中央に立った功の右隣に写っている人物は、殺害された冬木豊の若き日の姿だった。彼は既述したとおり、つくば大学医学部に進学し高校は佐野とは異なるが、察するならこれは大学のサークル(柳田国男研究の)活動上での繋がりと判断が出来るだろう。

 

更にお互いの立ち位置から二人の親しさが見て取れた。そして、もう一人が秋津の案件から偶然に登場した竹島竜二の顔であった。彼は、功と同じ大学の同期であるということは、これも同様に貴司とのミーティングの際に確認された事実で、ここに写る功の真後ろでその肩に手を掛けながら白い歯を露わにして楽し気に語っているというものだった。いずれにせよ、この頃の三人の近しい関係を明確に物語ったものといえる。さて、閲覧を前後しながら、もう一冊のアルバムを拡げてみると功の生誕日から少年時代までの幼い記録が整然と貼り付けられている。祖父母や両親から、かわりばんこに大事そうに抱かれているものや、また、当時の家族全員が一堂に会していると思われる記念写真には、一族の揺るぎない繁栄が営々と約束されているかのような揚々とした輝きに満ち溢れているものだった。
                                 (No,32へつづく)

 

注)物語は、一部の場所・人物をのぞいては、全てフィクションです。

 

ぱぱ日記

ちょびっと書けたんで、掲載しました。