灰色の相克(仮題名)

                                         作:おきくら 周(あまね)

No,29

 秋津が乗った新幹線は、そろそろ下車予定の北上駅に近づいてきたのでその準備を始めた。10月下旬といえば、北国の晩秋も増々深まっていく最中でもある。燃えるような山々の色彩が、驚愕をもって、すっかり旅行者の目を引き付けている。そんな窓外の景色の流れを感じながら秋津のように下車の準備を始めた人々は、これからこの地のあちこちを巡って季節に和む風景や温泉の温もりと土地の味覚を存分に楽しみ尽くすことだろう。

 

北上駅から東北本線へと乗り換え北へ十数分ほどで花巻駅へと列車は到着した。先ほどまで追いかけていた山地や田園風景の眺めとは異なり岩手県中西部に位置し、北上市と並ぶ工業都市である総人口9万人強の花巻市の駅に到着すると、周辺は一般民家やその他の建物に風景は占められ地方の一都市然とした様相を醸し出していた。勿論、東京近隣のような駅前の喧騒や高層ビル群の類は存在せず縹渺たる空をいただいている。都会の景気動向の良好さや表面的には海外からの来訪客の急激な増加による好景気感は残念ながら、まだ、この界隈には波及してはいなかったが、しかし、インバウンドの人々のSNS上の記事を覗けば、ここにも新たな日本の景色を求めて、じわじわと彼らの嗜好が変わり始めた気配を感じる。各主要都市部から地方文化の観光へと着実にフェーズは移り始めたようだった。もう暫くすればリュックを背負ったバックパッカーや家族ずれの外国人の姿がここそこにと目にすることができるであろう。

 

さて、大屋根の駅舎の外へ出ると東口のロータリー付近に据えられた十数本の銀色のポール群が目に入ってくる。これは『風の鳴る林』というタイトルのモニュメントで、不動物である樹木の脇をすり抜けて行く動たる風の流れをイメージしたものらしい。「これは、樹木をメタリックにすることで木々をすり抜けて行く目に見えぬはずの透明な風を思わせているというわけか・・・」と秋津は思ったが、果たして作者の意図はどうなのだろうか。

 

タクシーを雇って目的地を告げると運転手は、「ああ、ホテル奥州館ですね」と答えて車を出した。県道297号線を北西へ14分程走るとやがて岩手県下でも著名な花巻温泉へと入る。すると直ぐにこの界隈のホテルを代表する三つの白い豪壮な施設の内の一つが車の前方に迫ってくる。やがて半円形の車寄せに導かれながら、それらのエントランス付近にタクシーは止まった。運転手に礼を言って車外へでるとキャノピー下の薄い日陰のアプローチを歩いてガラスの扉の前に到着すると自動扉が開いて広大な吹き抜けの空間の先にあるフロントから、「いらっしゃいませ。ホテル奥州館へようこそ」と若い女性スタッフの声が迎えてくれた。秋津は、そのスタッフに「東京から参りました秋津圭吾と申します。こちらの佐野洋平CEOにお会いしたいのですが」と用件を告げた。

 

「あっ、はい、秋津様でございますね。佐野から伺っております。どうぞこちらへ」と既にスタッフには、迎い入れの用意はできていたようで、秋津をロビーの窓際の外景を一望できる一角へと誘いソファーを勧めながら、「佐野は直ぐに参ります。こちらでお待ちくださいませ」と丁寧に告げて一礼し戻っていった。入れ違いに別のスタッフがトレーを持って現れ、そこに持参した御絞りと淹れたてのコーヒーを「どうぞ、ごゆっくり」と幾分東北弁のイントネーションが残る標準語で言うと秋津の前に置いていった。秋津はそれを口にすると普段の事務所のインスタントコーヒーの味をふと思い出しながら、昨日、佐野洋平にアポを取った際のことを振り返っていた。最も事前には佐野麻子に連絡し義兄である洋平に秋津との対面の希望を打診していたのだが、その麻子からの返事を待って改めて今度は直接、洋平に連絡し具体的な日時を取り決めたのだった。

 

佐野洋平58歳。現在の佐野本家の頭首であり功とは5歳違いの長兄である。佐野の実家は、ここ花巻温泉のほぼ中央に位置する街内にあり曾祖父、佐野力蔵の代には明治期を通してこの地域の一角を占めた地主であった。大正年間にはここ花巻の市議となり後に市長を勤め地元の発展のため尽力した所謂、土地の名士の家であった。次の祖父、佐野栄の代からは家業でもある旅館業に従事し花巻温泉のリゾート化を進めるべく実業の才を存分に振るい、それまでの宿泊施設の概念を大きく変えて全国に名をはせた一大遊興地とした。そして昭和の中頃には、ホテル業を本業としながらも経営を息子貞勝(洋平・功の父)へと全て任せて、当人は岩手の県議として仕え、やがて副知事その後、知事として活躍した。

 

日本の復興期にあって東北の発展の方向性を探りながら観光産業と、そして工業化の二本柱を目標としたが、しかし、日本の経済活動は石炭・化学工業・製鉄・造船と重厚産業を中心に活況化していき、燃料や原材料の輸入そして生産物の出荷に際して物流は海路に委ねる必要性から日本近海に隣接する位置に生産の拠点は置かれた。このため東北内陸部まで主要な生産拠点が開かれるまでの間は工業都市化を目指すもう一つの目論見は暫くの足踏みを強いられたが、1972年(昭和47年)自民党の総裁選にて田中角栄が日本列島改造論を提唱し田中内閣が成立すると高速道路・新幹線・その他の主要インフラの整備拡張が始まり併せて経済構造の変化も伴い自動車や精密機械産業の主要化により潤沢な水資源の必要性が増すと主要河川を有する東北内陸部にも生産施設を誘致したい自治体の要望と合致して岩手の中西部へと念願の工業都市が現実のものとなっていった。

 

やがて県政から引退した祖父は晩年をこの地で過ごし寿命を全うした。そして昭和の混沌とした復興期を持ちこたえた父、貞勝から引き継いだホテル業は、現在グループ化し岩手県の中西部に温泉リゾート地としてスキー・スノーボード場はじめ各アウトドア施設や国際会議場・同音楽ホールなどの多目的設備を抱えて堂々と君臨する佐野グループの中核施設として盤石の体をなしていたのだった。

                              (No,30へつづく)

注)物語は、一部の場所・人物をのぞいては、全てフィクションです。

 

ぱぱ日記

小説も、そろそろ佳境を迎えるように仕上げていかねばと思っております。これまでの内容を振り返ると、今一つ物語が平面的で、どこか抑揚がない気もしますので、その辺りも考慮しながら後半へと続けるつもりですが、次のNo,30の投稿を待って、以後、この物語を仕上げるべく少しの間、書き溜めをするため、掲載の小休止を置こうと考えています。