下町・秋津探偵社

作:おきくら 周(あまね)

 

No,21 

 秋津が佐野邸を訪ねてから、更に数日が過ぎた。「先日、預かった例の『ノート』の件だが、いいか?」と榊庄吉は、風呂敷に包んだそれらの書き物を纏めて秋津に差し出しながら「こいつは、中々、大した研究資料だよ」と言った。「研究資料?」「ああ、これは、柳田國男が東北地方に伝わる伝承や逸話を、これらの直接の収集家でもあり小説家でもあった、佐々木喜善との交流を通して書物に纏めたとされているのだが、それらを通しての民俗学的な論考(ここまでは、国内には民俗学と呼ばれる学問は、まだ、存在していなかったが)というよりも、むしろ、彼が前半生に志した農政学から始まり、文学などの学問としての底流で繋がっているであろう、その他の学問も含め、それらの共通項を辿りながら、柳田自身の本質的な部分を、いうなれば『人間、柳田國男』の姿を表出していこうとした資料だと思う」庄吉が、そう説明すると、秋津は「つまり、柳田國男の、その成り立ちということかい?」とザックリと返したので、まあ、そういうことだとしながら、庄吉は更に続けた。

 

「彼の著した幾つもの書物から、その思考性や、または当時、彼がしたであろう幾多の人々との各地域での交流を大局的な側面から内部的心理に至るまでを学者として、或いは日常人としてのまさに”彼の成り立ち”を、そこから探ろうとしたものだと思う」そこまで語ると庄吉は、「ところで、この資料の制作者の佐野氏だが、彼は東北の出身者だと言ったね」秋津は「ああ、確かに彼は、岩手の花巻市出身だ」と答えると、「文中、東北の地域コミュニティーの志向性を垣間見せようとする記述も多々あるが、それはまさに柳田が民俗学的な興味をそそられたであろう部分の理由付けにしているのだが、これは外部の人間が、ちょこっと取材したぐらいじゃあ見出しきれない優れた発見だよ」と庄吉は言った。

 

更に「彼(佐野)は、元々が民話や伝承の直接の口述者でもある、先ほども言った佐々木喜善が生活の基盤ともしていた遠野の山々を自らも巡り、東北に生きた人々の足跡を辿りながら、柳田が接した当時の特定個人との関わりを可能な限り掘り下げていき、しかも、当然その多くは、故人の子孫及びその近親者に対しての取材となるわけだが、なにしろ、今はもう現存しない当時の人々との交流を通して得た成果や柳田当人の心理の在り方までを描き切るのはかなり難しい作業であったことは明らかだ。そのために必要とした資料なりを準備するのも多分、一苦労だったであろう。柳田没以来、彼を学者としての観点から、その方法論を巡って語られ著されたものは多々あるが、日常人としての彼に重心を置いたものは左程、多くはない」と秋津に言った。

 

秋津は、「永杉氏から渡された佐野の履歴書その他にも生憎、上京以前のことにそれほど細かな記述はなかったが、しかし、彼の出身大学は国立つくば大学で、民俗学・文化人類学科云々とあったはずだから、今の、お前の話しを聞くと、それ以前から柳田國男の研究を始めていたのかもしれないな」と答えた。「しかし、それらの文献を通して、柳田の内面まで踏み込むためには、文書化されていない部分までをも読み取れるかなりの洞察力が必要だと思うが・・・そのための佐野本人の内面の主観と客観の絶妙なバランスが彼の優れた洞察力を生み出しているんだ。これには本当に恐れ入ったよ」と庄吉はこれらの資料から伺える彼の均整のとれた観察眼の優秀性に感服したという様子であった。そして、「多分、この頃まで佐野は、柳田國男の研究を生涯にわたって続けていこうと思っていたのかもしれないな」とも言った。それは、民俗学の基本は、そのフィールドワークにあるといわれるように、柳田当人のゆかりの地でもあり、その足で歩いたであろう東北路へ、いつで戻ることができるようにと、それ程遠くない場所として、その大学を選んだのかもしれない。

また、彼(柳田國男)の文献を所蔵する施設については、中央に近いほどアクセスし易く図書館やその他大学へと足を運ぶにも、なにかと便利であっただろうから、両方の便を満たすためにもその大学の所在は都合がよかったのかもしれない。

 

そして、秋津は、あの佐野家で目にした書棚の緻密な整理方法を思い出した。あれを見ただけでも、佐野本人の効率性や合理性を優に窺い知ることができる。それは、ただ単に緻密ということではなく、整理された書籍のそれぞれが、全て縦横に関連させられるような手法で複合的に置れてあった。いうならば、ある種、囲碁やチェスの盤面に置かれたコマのように理論的な方向性を示していたともいえた。佐野とは、そのように全てを熟考して物事を動かす性格なのだろう。

 

「ありがとう、お陰で、佐野氏の秀逸性とか人となりはよく分かった気がする。彼をイメージするには十分だ。大いに今後の参考になると思う」と、礼を言うと、「ああ、」と庄吉は答えてから、すっと肩の力を抜き、もう一度ちらりと何かを言いた気に秋津の顔を見直して言った。「それにしても、俺は、このノートと文献を検分しながら、この人物のことをいろいろと想像してみて気が付いたのだが、何だか彼は、お前に随分と似ている気がしてな・・・」と、 庄吉が言うと、秋津は、「俺にか?」と、ちょっと面食らった様子で庄吉を見た。「まあ、こういうのは、自分では気づかないものなのかもしれんが、何となく、生き方や在り方に通じているというか・・・」と、更に庄吉が言うと、「ハハ、なるほどな」と秋津は否定も肯定もせず一瞬の沈黙の中で、庄吉のいうところの自分自身の主観と客観という心のバランスを考えていた。

 

つまり、心理学では、個人が内包する主観と客観の、これらを別ける境界線を『バウンダリー』というらしく、これによって双方は差配されているというのだが、秋津は、客観とは、明確な個があってこそのものであると思っていた。つまり、物心がつき始めて得られた自分に対しての肯定と愛情の重層が確たる個をつくる。バウンダリーとは、先ず、このような個があってこそ、これを基軸として初めて明確な客観を派生させ対比できるのではないかと。つまり庄吉の感じた佐野の持つ圧倒的な能力とは、彼を形作った人的、物的な環境の中で自然に育まれていった先に、明確な主観を確立させ同時に明確な客観をも派生させていったのだと秋津は、そう思った。

 

「ああ、それと、もう一つ・・・彼は・・・」と、庄吉は言葉を繋いだ。「彼の住まいは、世田谷の成城だったな?」と、その資料の解析を秋津から依頼された際に聞いた佐野家についての概要から思い出したようで、「そこの区域は、大正、昭和を通じて幾人かの文化人が居を置いた場所で、柳田國男本人の晩年の屋敷があったゆかりの場所でもあるようだよ。もっとも、その居住家屋は、現在では遠野に移築されているらしいが」と、さらりと情報を付け加えた。秋津は、「ほおー、柳田の終の棲家の跡がな」と言いながら、秋津は、ふと、佐野が、あの書斎からふらりと路地へと出て散歩がてらに、その旧柳田邸の跡地付近を巡る彼の姿を思い浮かべると、果たして、そこに彼が居ることは偶然の導きだったのだろうかとも考えながら、彼にとっての“師”ともいえる柳田の姿をその場所に立って、どのような気持ちで忍んでいたのだろうかと思わざるをえなかった。(因みに、東京、世田谷に位置する私大の成城大学は、この柳田との関わりから彼を日本の民俗学の祖として、その書物や研究文献を多々有する幾つかの大学の一つでもあった)

                               (No,22へつづく)

 

注)物語は、一部の場所・人物をのぞいては、全てフィクションです。

 

ぱぱ日記

小説は、ちょっと間が開いてしまいましたね。まあ、ぼちぼちやってます。

今日は、朝から雨・・気分も乗らない感じですが、週末は、どうやら桜も咲くとのことで、楽しみにしています。