下町・秋月探偵社

作:おきくら 周(あまね)

 

No,19

小春日和の庭に金木犀の甘い香りが立ち込めて季節の移ろいを知らしめている。麻子は少し深く息を吸い込んで、ゆっくりと、それを吐出しながらしみじみと言った。「あの10年前にも、季節が秋に掛かり始める頃、どこかしら、この香りが漂ってきておりました。虚無に沈んでいた私の胸奥にもゆっくりと沁みて来て、その優しい匂いは随分と私を慰めてくれたものでございます」そういうと庭の漠とした方向に目を移したので、誘われるように秋津もその先を見たのだが、金木犀の花をそこに確認することはできなかった。秋津は、自らのそんな振る舞いを取り繕うかのように、「私もこの匂いが路地裏などから漂ってくると、はからずもその在りかを求めてはみるのですが、中々、それを見付け出せないということが、これまでも度々ありました」というと麻子はニコリと微笑んで「そうですわね。随分と遠くから風に乗って運ばれてくることもございましょうから」と答えた。秋津は、麻子のそんな眼差しが、先ほどからの表情と少し変わったことに気付くと、麻子が語る言葉の端々やその比喩などに意図せずながらも忍ばせたものはないかと注意を払ったが、それを見つけることはできなかった。しかし、その顔は今の麻子の立場や心情に繋がるような寂寥の顔ではなかった。

 

それらを意外に思いながらも、敢えて失踪する以前の佐野の様子など月並みながらの借問を試みたのだが、麻子にはこれといって明確な心当たりなどはまったくなく、普段と代り映えのない夫をその朝に見送ったことなどを秋津に語るのみであった。「そうですか」と秋津もこの美しい白皙の夫人に今更ながらの質問であったと思いながら、しかし、ただ、一つだけどうしても気に掛かっていた例の疑問があった。永杉が佐野を語ったときに凡そふさわしからぬ“忌地巡り”という彼の趣味についてであった。しかし麻子は「そちらに付きましては、ちょっと不思議な気がしておりました。私も主人の失踪時に、警察や皆様(永杉等の部下)からその様なお話を伺ったのですが、私の前では、諧謔にもそのようなことはございませんでしたので」と麻子の返答には彼らとの明らかな齟齬を示したのだった。

 

秋津は更に尋ねた。「部下である永杉さんのお話の様子ですと、しばしば、それについては談笑交じりに佐野さんから伺うことがあったと聞いておりましたが、しかし、それには私も多少の違和感を覚えておりました。失礼ながら、佐野さんの会社内での立場などを考え合わせると“忌地を巡る”という趣味が今時の若者のような言ってみれば怖いもの見たさの所謂、興味本位の娯楽という浅はかなイメージとは、およそ結びつかないのです」それらを受けて麻子は「主人の趣味とは、どちらかというと自室に籠り書物を読み漁るというような、むしろインドアの人で、今時の心霊スポット探求などとはむしろ真逆で全く当てはまらないものだと思います」そして思い立ったように言った。「佐野の書斎へご案内いたしましょう。そちらで、佐野のありのままの生活の要諦をご覧いただいた方が、私が言葉として伝えるよりも、よけいな先入観を持つことなく何かを感じ取っていただけるやもしれません」というと家政婦の津田いくに「いくさん、功さんの書斎へ行って下さる」と秋津を伴い廊下を逆に辿り結局、当初の玄関付近へと戻ってきた。

 

つまり玄関口の最初の部屋を佐野は書斎として使っていたらしい。ここは洋間ではあるが部屋の開け閉めはドアではなく、ここにも上吊りの引き戸が設えられている。家政婦のいくが、車椅子の麻子を傍らに置いて、その部屋の引き戸をゆっくりと滑らせた。開かれた出入口から内部を覗き込むと、右側の突き当りの壁一面には書棚がピタリと据えられている。そして相対する左手奥の突き当りにも同質の書棚が設置されていて、この書棚の前には一人掛け用の暗褐色のソファーが置かれ、側部には円形のテーブルとその上に間接照明が配されていた。全体的には奥行きよりも左右に長い6坪ほどの長方形の部屋であり、ここから直接、外に出入りするための、出入口(ここは扉ではあるが)が一つと、その他は外気を取り込むための天井寄りの高い場所に斜めに開閉できるオペレーターハンドルの窓が横に三か所、等間隔に取り付けられていた。そして、その下部には比較的大きめで嵌め殺しの格子窓が外光をふんだんに室内に採り込んでいる。更に、この窓の下枠に沿っては、幅広でアンチック調の長机が置かれていて、机上には左手側から右方向に作業用LED照明とデスクトップのPCそして辞書等の書籍の入った本立てという順で適度な間隔を保って置かれていた。また、長い机の端から端までを座ったままでも移動可能であろうと思われる、キャスタ―付のがっぷりとした背凭れの椅子が、主の不在を物語るかのように机下のポツリとした空間で所在なくその座面を留めていた。

 

「こちらが、佐野の書斎です。どうぞご自由にご覧になってくださいませ」そういうと麻子は、その邪魔にならぬようにという物腰で「ご覧いただきました後は、こちらを押してくださいませ」と長机の上に置かれた内部用インターホンを示すと、部屋を出ようと車椅子の向きを替えた。そして、もう一度秋津の方に振り向きながら、ある種の期待を込めるかのように「もしかしたら、あなたは何か夫の手掛かりを見つけてくださるのではと、そんな気がいたします・・・それは・・・」そう言い掛けて、麻子は、(ふっと)次の言葉を飲み込んだように見えたが、すぐにその余韻を打ち消すように、ゆっくりと頭を下げ再び前を向き津田いくに車椅子を押されて五間ほど離れた廊下の先を右に折れると、程なく引き戸の滑る音がして車椅子の車輪の例のキュッという摩擦音の後、引き戸は静かに閉められた様子であった。どうやらそこは、この屋敷の居間に当たるらしく麻子の車椅子が部屋に入り切る瞬時の隙をぬって甘い芳香がここまで僅かに匂ってきたが、これは先ほど庭に漂っていた金木犀の香りとは、また異なるものだった。

                                                                                                                  (NO,20へつづく)

 

注)物語は、一部の場所・人物をのぞいては、全てフィクションです。

ぱぱ日記)

ブログ記載した小説を読み返してみると、”てにおは”の間違いやら何やらと書き改める作業が意外にあるものだと感じています。何せ、この先の展開をあれこれと考えているうちに、その様な間違いやお話しそのものの成り行きなども、どこか怪しくなり、結局、後戻りして書き直す・・などという事ばかり、このところ繰り返している現状です。それでも何とか、最期まで小説を完結させられるよう頑張ってみます~♬