下町・秋津探偵社

作:おきくら 周(あまね)

 

No,16

 帰りのタクシーの中で携帯の着信音が鳴った。耳にあてると「おう、俺だ」と結城貴司の野太い声が聞こえてきた。「なんだい?」と問う秋津に「会えるか?」と、いつものぶっきらぼうな調子で聴いてきた。「これから事務所に帰るところだが」と答える秋津に「分かった、そっちに行く」とこちらの返事を待たずに携帯電話は一方的に切れた。

 

事務所に戻ると一足先に来所していた貴司は妹のみどりに淹れさせたコーヒーを飲みながら、「やっぱ、コーヒーはブルマン(ブルーマウンテン)だな。この香りが何ともいえん」と口癖のように繰り返しながら、いつものコーヒーに関するミニ知識を披露していた。実のところ、ここに立ち寄る度に貴司にも振る舞っていた一階の喫茶店のコーヒーを彼はいたく気に入っていたのだが、先日、永杉にも話したように今飲んでいるものは、みどりが淹れたまったくのインスタントそのものだった。

 

他のお客にはもれなく「インスタントですが」と一言断るのがみどりの癖だったのだが、実の兄には何故かその事実を伏せていた。というより、最初の頃は兄にちょっとした悪戯心でしたことだが、何度かするうちにタイミングを逸してしまったというのが実際のところだった。おまけに、貴司のコーヒーについての巷説まで聞かされた後ともなると尚更であった。その辺の事情を勿論、秋津は承知してくれているので調子を合わせて「ぼくもブルマン淹れてくれるかい」と、敢えてみどりに頼んだ。

 

「はい」と答えて、そそくさと台所を隔てたパーティションの陰で、いつものインスタントコーヒーを淹れるためのお湯を沸かすみどりだった。秋津は応接間の手前に置いてある自分のお気に入りの籐椅子にちゃっかりと腰掛けている貴司に向って「ところで、今日は、もしかしたら例の殺人の件かい?」と尋ね占拠された籐椅子の代わりに自分の事務机から飾り気のない椅子を引き出して座った。その秋津の言葉に貴司の表情は瞬時に刑事の顔に戻った。「ああ、実は今回の害者の身元が分かったんだが、こいつがどうやら、昨日お前が言っていた案件に少し関係してくるかもしれんと思ってな」貴司の口から洩れた言葉に秋津は鋭く反応して話に聞き入った。

 

「そちらの行方不明者が失踪直前に肝試しで侵入したという中野の旧蓼科病院にかつて勤務経験がある“冬木豊”という外科医の男だったよ」「外科医の冬木豊か」勿論、秋津には初めて耳にする名前だったが、しかし、旧蓼科病院関係者というこの共時性には、ただの偶然かもしれないが、もしかすると秋津の案件にもある種の方向性を示す切っ掛けになるのではないかとも思えた。貴司も秋津のその表情を確認するように間を置いてこちらの言葉を待っているように見える。

 

察した秋津は「中野(旧蓼科病院)の跡地に行ってきたよ」と貴司の思惑に応えるように、さっきまでのいきさつを話し始めた。貴司はいつもの通り腕組みをして時折顎の無精ひげを指先でジョリジョリと探りながら秋津の話しの顛末を静かに聞き入っていた。秋津が語り終えると貴司は籐椅子からスクッと立ち上がり「なるほどな。それもほぼ10数年前の出来事で奇妙といえば奇妙だが、一応、念のために取り扱った管轄部署に確認を取ってみよう」そう言って早速、携帯を開いて部下にその旨を支持した。(やっぱりこいつは職人だな)と、その様子を見ていた秋津は改めて思った。

 

こんな、ただの面白おかしい世間の噂話に過ぎないかもしれないことを、耳にした以上は聞きっぱなしにすることなく事実の裏を取るというその姿勢には、いつも秋津を感心させた。勿論、やみくもに何にでもそうするわけではないのだろうが、それは多分、心に刺さる異物感のようなものを感じたとき見逃すことのできない刑事としての性分なのだろう。ノンキャリアで若くして警部補となったのは伊達ではないと改めてこの男の物事を嗅ぎ分ける優れた能力を思った。

 

「何か分かったら直ぐ知らせる」そう言う貴司の緩めたネクタイのワイシャツから除く浅黒い肌が大柄な体躯を更に精悍に見せていた。「参考になったよ。それじゃ署に戻る」と、またしても、そのぶっきらぼうな口調で秋津に伝えると、自分の席に腰掛けて二人の会話の一部始終をじっと窺っていたみどりに「サンキュー、ブルマンうまかったよ」といって飲み終えた空のカップを手渡しながら「きょうも遅くなるが、母さんには起きてなくていいと言ってくれ」と言伝て事務所のドアを開けて出ていった。そんな兄のいつも通りの仕草を見ていたみどりは「兄さん、ここへ来たときは必ずネクタイ緩めるんだな」とボソリと言った。

 

その言葉に振り向いた秋津に「仕事に没頭するあまり兄は、中々ゆっくりできない分、ここへ立ち寄ったときだけは、あれでもリラックスしてるんですよ。ほんの僅かな時間でも・・・」それは2年前まで本庁勤務といえども同じ警察官であり、あるいは学生時代からお互いを熟知し合った無二の友として絶対の信用を寄せる秋津の存在こそが気を抜くことができる唯一の場所なのだろう。それは勿論、秋津にとっても同様だった。

 

秋津の警察官を辞した理由も敢えて聞くことは無く、黙っていつもの通り変わりない付き合いを続けてくれながらも時折、仕事上の相談を持ち掛ける体でここに顔を出す。そもそも事務所を開くことを決めた時にも、大学を卒業したばかりのみどりを強引にこの事務所の秘書兼事務員として雇用させたのも貴司の取り計らいだった。それは、みどりを通して秋津の様子を都度知ることができるようにという貴司の目論見だったのだが、その意図は秋津には最初からお見通しのことで、しかし秋津もまた、そのことには一切、触れることなく貴司の気心に甘んじていたのだった。

 

お互いに深い部分には立ち入らずに距離感を保ちながらも理解し合えるという関係は、みどりから見れば羨ましいくらいの友情の在り方だった。もしかしたら、そんな兄に悪戯心でインスタントコーヒーをつい飲ませてしまったのも、2人の強い友誼にどこかで嫉妬していたからなのかもと思ったこともあった。自分もそのような友との暗黙の絆の中に入りたいと切望しながらも女の自分には何処か不如意な壁で隔てられているような気もする。そこのところを秋津は、何となく気付いていて『インスタントコーヒー事件』の共犯という立場で、みどりの気持ちを宥めてくれていたのかもしれないが、秋津圭吾という男はそれについても余計なことはいわない男だった。

                                                                                            (No,17へつづく)

 

注)物語は、一部の場所・人物をのぞいては、全てフィクションです。