私は決して英語が不要だとは言っていません。
ただし、無用な英語偏重と英語万能と勘違いしている人たちには、
批判的な立場を取っています。
特に英語=グローバル化という考えに対して。
で、本日は英語ができることによって、
「得すること」「楽しくなること」を述べさせていただきます。
======
以前、国際理解の研修ワークショップで
「英語ができると得なことをグループで考えましょう」
というファシリテーターが意図的に「英語教育は必要」という結論に向かう、
論題を出しました。
これは、何かに書いたと思いますので省略します。
過去に書いたものにも「英語ができるから損したこと」というのもある、
と記述したように思います。
おそらく「損した経験」は私以外の人では少ないのかもしれません。
★「英語ができるから損した経験」
◎シンセンの駅で鉄道チケットを買うとき、英語で行先と席と人数をきかれたので、
つい英語で答えてしまいました。「外国人料金」になってしまい、夫婦げんか。
さっきまで香港人と英語でやりとりしていたので、つい出てしまったのです。
旦那にチケット購入を頼んだほうがよかった。
奴の訛りばっちりの中国語でやりとりしたほうが安くあがった。
◎悪口がきこえてくる
で、その後、広州のYMCで、中国人の態度の悪さの被害にあった西洋人たちによる
中国人の悪口…めちゃ汚い英語…しかも私たちが中国人で英語がわからないという前提でしゃべっていて、私たちを猿だの豚だの…ああいいよ、西遊記で…で、
品のいい女性が私たちが中国人でなく、英語もわかっているのに気付きました。
結末だけいうと、彼らのテンションダウン。
気分悪かった。
しかし、これって何語でも同じ。
数日前、アメ横で「つぁおにぃま!」を連発させながら仕事している中国人。
さらに私が聞き取れる単語は不愉快極まりない。
聞き取れなかった中国語も類似の単語だったのは間違いない。
いずれも知らなければ、ただの風景、セミの鳴き声でした。
◎英語(中国語)ばかりで母語で話してくれない
チベット人です、特に。
自分の言語がマイナーだと思っていて、しかも外国人にとって英語より難しいと思い込んでいる。
だから、英語がわからないふりをしながら、母語に持ち込む、
かなり苦労が必要です。
母語でなければ本音がわからないという基本姿勢を持っていますので大変です。
中国語も普通語でなく方言語を出してもらう努力が必要となります。
◎↑蛇足ですが、母語で会話、は私の方針なんで、
日本にいるチベット人に対して日本語で話すようにしています。
私のチベット語よりあなたの日本語のほうができるという言い方で。
礼儀だとも思っています。
======
で、英語ができて得したこと。そして、なぜ英語が必要であるかという意味。
たぶん、過去に「自分の思考の確認」「異なった言語で考えることによる発見」
を挙げた記事を書いたような気がします。
それとは別に。
======
▼本日、アルバイトで「売り場のおばちゃん」にエラソーにされていました。
この人がエラソーにできる数少ない相手・立場の人間だから、
そういう態度なのだということは理解していますが、気分は悪い。
しかし、東南アジア、たぶんシンガポールかマレーシアと思われる方々に訊かれ、
英語で対応していました。
外貨両替がどこでできるかというお尋ねでした。
大した英語ではなかったのです。
その後、おばちゃんの態度が変わりました。
ご想像どおりです。
→日本人は基本英語コンプレックスがあるので、
英語がちょっとだけできるとエライのかもしれません^^;
※同じく過去のバイトで英語でお客様とやりとりすることがありました。
えっ?? おばちゃん英語できるの?? みたいな疑いから入り、
通訳してあげると…
お客様が必要な商品を聴きだし…次のラウンドでは「神業おばちゃん」扱いになりました。
こんなのバイト料金には「そんなの関係ねぇ~」ですよね。
というか、英語・中国語ができることがお金になるのは特殊でうよね。
▼若い頃インド・デリーで香港人の女の子ふたりがバスの乗り方をバス停で
私に中国語で質問してきました(中国系と思われたらしい^^;)
私はそばにいたカレシにチベット語で訊きました。
カレシは隣にいたインド人にヒンディーで訊きました。
で、リレーで戻ってきました。
後で気づきました、全員英語で話せば瞬間に解った!!
→さりげなく世界語。
▼↑この経験の後、インド・ダラムサラで生活していたころ、
日本人男性が来ました。
私は彼と日本語、私はチベット人とチベット語、どちらも通じるのですが、
私が彼と日本語で話している間はチベット人たちにはわかりません。
私がチベット人たちと話している間は彼には分りません。
「全員で英語で話す」
→全員母語でないけれどそこそこに伝わります。
なお、この日本人男性の英語が発音は別として一番うまかった。
本職は高校の英語教員だったそうです。
▼↑で、今の仕事「共通語としての日本語」
この3月に卒業したフィリピン娘たちは同じ国同士の友達とも学級では日本語で会話していました。すごくえらいと思います。
その上の学年の中国娘たちは学級であっても日本語教室の時間であっても中国語ばかりでした。日本語教室タイムは中国語で話すことで日本語レベルが上がると確信しているので推進したいのですが、「クラスでは中国人同士でも日本語で話してね」と口を酸っぱくして言っています。その会話を傍受する日本人生徒の気持ちから考えれば、何を言っているのか不明は怖いのが一般的です。しかも笑っていると「自分がばかにされていないか」など無用な心配もうむことになります。本来コミュニケーションをとっている相手ではない空間を共有している第三者に対してもコミュニケーション能力として必要なことなのです。
「中国人同士で日本語で話すのはヘン」という気持ちも理解できなくないのですが、
英語のような共通語として心理的な抵抗を克服してほしいものです。
======
★今回の旅行で
◎中途半端なベンガル語だったら英語で会話して、
でも、ベンガル語の感覚は頭に入れて会話して。
◎ダージリンではチベット系の人以外は英語ベースでネパール語ミックス会話でした。
向こうの英語も大したことがなかったからこそ通じたと感じたシーンがたくさんありました。
◎ブータンではチベット語をゾンカ語(ブータン語)に置き換える練習をして出かけましたが、
ブータン人が私に合わせてチベット語風のゾンカ語で話しをしてくれました。
(通訳ガイドさんではなく)
残念ながら★★★★ホテル等での英語はあまりに教科書的な美しい英語だった。
ところが★★★ホテルは英語なしで私に合わせてくれました。
======
話を英語に戻しますが、言語は「ツール」です。
そして空間を共有する「場」で適切な言語選択を求める必要性があります。
「空気を読まずに空間共有者に対して言語で理解しあう」
これが英語が必要であることの意味だと考えています。
好むと好まざるを抜きにして英語が持つ役割になっていますから。
世界の民族分布や貧富の差をうんだ英国の罪は言語で償ってもらうしかないでしょう。
りす! それは明治英語とルー大柴だよ☆
でも、これが正しいのかもね。
ただし、無用な英語偏重と英語万能と勘違いしている人たちには、
批判的な立場を取っています。
特に英語=グローバル化という考えに対して。
で、本日は英語ができることによって、
「得すること」「楽しくなること」を述べさせていただきます。
======
以前、国際理解の研修ワークショップで
「英語ができると得なことをグループで考えましょう」
というファシリテーターが意図的に「英語教育は必要」という結論に向かう、
論題を出しました。
これは、何かに書いたと思いますので省略します。
過去に書いたものにも「英語ができるから損したこと」というのもある、
と記述したように思います。
おそらく「損した経験」は私以外の人では少ないのかもしれません。
★「英語ができるから損した経験」
◎シンセンの駅で鉄道チケットを買うとき、英語で行先と席と人数をきかれたので、
つい英語で答えてしまいました。「外国人料金」になってしまい、夫婦げんか。
さっきまで香港人と英語でやりとりしていたので、つい出てしまったのです。
旦那にチケット購入を頼んだほうがよかった。
奴の訛りばっちりの中国語でやりとりしたほうが安くあがった。
◎悪口がきこえてくる
で、その後、広州のYMCで、中国人の態度の悪さの被害にあった西洋人たちによる
中国人の悪口…めちゃ汚い英語…しかも私たちが中国人で英語がわからないという前提でしゃべっていて、私たちを猿だの豚だの…ああいいよ、西遊記で…で、
品のいい女性が私たちが中国人でなく、英語もわかっているのに気付きました。
結末だけいうと、彼らのテンションダウン。
気分悪かった。
しかし、これって何語でも同じ。
数日前、アメ横で「つぁおにぃま!」を連発させながら仕事している中国人。
さらに私が聞き取れる単語は不愉快極まりない。
聞き取れなかった中国語も類似の単語だったのは間違いない。
いずれも知らなければ、ただの風景、セミの鳴き声でした。
◎英語(中国語)ばかりで母語で話してくれない
チベット人です、特に。
自分の言語がマイナーだと思っていて、しかも外国人にとって英語より難しいと思い込んでいる。
だから、英語がわからないふりをしながら、母語に持ち込む、
かなり苦労が必要です。
母語でなければ本音がわからないという基本姿勢を持っていますので大変です。
中国語も普通語でなく方言語を出してもらう努力が必要となります。
◎↑蛇足ですが、母語で会話、は私の方針なんで、
日本にいるチベット人に対して日本語で話すようにしています。
私のチベット語よりあなたの日本語のほうができるという言い方で。
礼儀だとも思っています。
======
で、英語ができて得したこと。そして、なぜ英語が必要であるかという意味。
たぶん、過去に「自分の思考の確認」「異なった言語で考えることによる発見」
を挙げた記事を書いたような気がします。
それとは別に。
======
▼本日、アルバイトで「売り場のおばちゃん」にエラソーにされていました。
この人がエラソーにできる数少ない相手・立場の人間だから、
そういう態度なのだということは理解していますが、気分は悪い。
しかし、東南アジア、たぶんシンガポールかマレーシアと思われる方々に訊かれ、
英語で対応していました。
外貨両替がどこでできるかというお尋ねでした。
大した英語ではなかったのです。
その後、おばちゃんの態度が変わりました。
ご想像どおりです。
→日本人は基本英語コンプレックスがあるので、
英語がちょっとだけできるとエライのかもしれません^^;
※同じく過去のバイトで英語でお客様とやりとりすることがありました。
えっ?? おばちゃん英語できるの?? みたいな疑いから入り、
通訳してあげると…
お客様が必要な商品を聴きだし…次のラウンドでは「神業おばちゃん」扱いになりました。
こんなのバイト料金には「そんなの関係ねぇ~」ですよね。
というか、英語・中国語ができることがお金になるのは特殊でうよね。
▼若い頃インド・デリーで香港人の女の子ふたりがバスの乗り方をバス停で
私に中国語で質問してきました(中国系と思われたらしい^^;)
私はそばにいたカレシにチベット語で訊きました。
カレシは隣にいたインド人にヒンディーで訊きました。
で、リレーで戻ってきました。
後で気づきました、全員英語で話せば瞬間に解った!!
→さりげなく世界語。
▼↑この経験の後、インド・ダラムサラで生活していたころ、
日本人男性が来ました。
私は彼と日本語、私はチベット人とチベット語、どちらも通じるのですが、
私が彼と日本語で話している間はチベット人たちにはわかりません。
私がチベット人たちと話している間は彼には分りません。
「全員で英語で話す」
→全員母語でないけれどそこそこに伝わります。
なお、この日本人男性の英語が発音は別として一番うまかった。
本職は高校の英語教員だったそうです。
▼↑で、今の仕事「共通語としての日本語」
この3月に卒業したフィリピン娘たちは同じ国同士の友達とも学級では日本語で会話していました。すごくえらいと思います。
その上の学年の中国娘たちは学級であっても日本語教室の時間であっても中国語ばかりでした。日本語教室タイムは中国語で話すことで日本語レベルが上がると確信しているので推進したいのですが、「クラスでは中国人同士でも日本語で話してね」と口を酸っぱくして言っています。その会話を傍受する日本人生徒の気持ちから考えれば、何を言っているのか不明は怖いのが一般的です。しかも笑っていると「自分がばかにされていないか」など無用な心配もうむことになります。本来コミュニケーションをとっている相手ではない空間を共有している第三者に対してもコミュニケーション能力として必要なことなのです。
「中国人同士で日本語で話すのはヘン」という気持ちも理解できなくないのですが、
英語のような共通語として心理的な抵抗を克服してほしいものです。
======
★今回の旅行で
◎中途半端なベンガル語だったら英語で会話して、
でも、ベンガル語の感覚は頭に入れて会話して。
◎ダージリンではチベット系の人以外は英語ベースでネパール語ミックス会話でした。
向こうの英語も大したことがなかったからこそ通じたと感じたシーンがたくさんありました。
◎ブータンではチベット語をゾンカ語(ブータン語)に置き換える練習をして出かけましたが、
ブータン人が私に合わせてチベット語風のゾンカ語で話しをしてくれました。
(通訳ガイドさんではなく)
残念ながら★★★★ホテル等での英語はあまりに教科書的な美しい英語だった。
ところが★★★ホテルは英語なしで私に合わせてくれました。
======
話を英語に戻しますが、言語は「ツール」です。
そして空間を共有する「場」で適切な言語選択を求める必要性があります。
「空気を読まずに空間共有者に対して言語で理解しあう」
これが英語が必要であることの意味だと考えています。
好むと好まざるを抜きにして英語が持つ役割になっていますから。
世界の民族分布や貧富の差をうんだ英国の罪は言語で償ってもらうしかないでしょう。
りす! それは明治英語とルー大柴だよ☆
でも、これが正しいのかもね。