こんにちは!のりこです。


今回も鬼滅シリーズですいのしし
鬼滅の刃のストーリーを含みますので
ご了承ください✨(笑)

伊之助と善逸に、癒される💕(笑)

前回の続きで

鬼滅の刃の主人公
竈門炭治郎の
共通点から見えてくるものを
深めてみたいと思います✨



鬼滅の刃では

「自分で考える」

キーワードが出てきます。
自立がテーマになっていると
考えます。


炭治郎は戦いのとき、
どんな局面であっても
自分の頭で考えることや
自分で自分を励ます姿が
よく描かれています。


他の人に対しても
同じように接していて、

指示されたことだけ遂行し
自分の意見は
「どうでもいいから」
と、言う仲間のカナヲに対して


「どうして自分で決めないの?」

「がんばれ!
人は心が原動力だから
心はどこまでも強くなれる!」


と、カナヲの手を取って
励ましています。名言ですね。


眩しいほどまっすぐで
太陽のような炭治郎と
えりりんさんがかぶって見えた方
少なくないんじゃないかな✨


えりりんさんのサロンは
先日終了されたのですが、

最終的に自分で決めること
自分で考え、整えることを
主軸に見据えて
信頼や愛のサポートを
本当に惜しみ無く
捧げていらっしゃいました。


わたしも、そのサポートを
受け取った一人です。


えりりんさんも、炭治郎も
鬼(エゴ)が嫌いだから
斬り込んでいるのではなく、


大切な相手が
幸せに生きるためには
本来の自分に戻るためには
そうすることが不可欠だから。


すべての言動に
愛が起点になっていることが
大きな共通点だと思います。


えりりんさんは
相手が素晴らしい真ん中があるのに
重い意識でそれを覆っているなら
全身全霊で捨て身でも
正面からきり込んでおられました。


炭治郎は
鬼になった妹の禰豆子が
元の人間に戻る方法を知るために
ラスボスの鬼に辿り着くしかなく、
また、少しでも鬼に幸せを奪われる人が
いなくなるよう願って戦います。


鬼に対して
正面から向き合って
鬼が成仏するまで対峙する。


鬼をエゴとして置き換えると
向き合うときに
まっすぐ見る
愛を込めて対峙する
ことが大切で


それは排除や成敗とかではなく
すべて愛が起点になることを
学んだのでした。




えりりんさんのサロンでは、
わたしを含め
自分ではどうにもならない
エゴの暴走を終わらせようというエナジーが
集まっていらっしゃいました。


わたしが見ていた限り
大半の方は学びを活かされて
ブロガーさんなら
気づきを記事に書き起こされたり
葛藤があっても着実に
進まれていました。


でも、時々
一転して急に悪口陰口を言って
それまで築いてきた関係を絶って
あろうことかえりりんさんを攻撃して去る
という方が、現れました。


それまで捧げられた
信頼や、愛、サポート、交流したこと
すべてを忘れて
盲目になる結果です。


えりりんさんご本人に直接話を聞かずに
思い込みで切り捨ててしまう
自分が被害者のように仕立てる
ブログでその暴走を書きあげて
反応した周りの人たちが
また負の連鎖を起こし始める、、など、


その方たちも
もともと終わらせたかったはずの
エゴの暴走を
間近で目撃することになりました。


そんな時、えりりんさんは
どうするかと言うと
相手の全てを理解しても
それでもその方の真ん中を信頼します。


どんな無礼があろうとも
自分から切り捨てるようなことは
一切ありませんでした。


えりりんさんの名誉や
不快な思いをしたからとか
そんなことではなくて
その方の平穏が少しでも取り戻せるように、と
最後まで込めて
離れてもなお思っていらっしゃいました。



一見、達観しているような方が
上から目線で

あいつに話しても無駄だ
意識が低すぎる
エネルギー泥棒には取り合わない

このように対応することは、
ただの怠惰と、差別意識です。
と、えりりんさんは仰っていました。


そこにアイ.があれば
無駄なことなどなにもなく
アイ.を込めなくていい対象など
存在しない。


わたしの取り組みは悠久の時に
捧げているもの。
ほんのわずかでも
その方に確かなアイ.の痕跡を残すことに
意味がある。


と仰って、
自己顕示のためとか
承認欲求のためとか
もう我欲のためとか全くない意識から
捧げていらっしゃることに、、、


心が震え、涙が溢れ
止まらなくなりました。


恩を仇で返すように
陰湿で卑怯で醜く暴走した方に対して
わたしはわたしで勝手に反応して
ただただ、怒りに満ちました。


昔の自分を許せなかったり
受け入れ途中の凶暴性など
反応するタネが
自分の中にたくさんあったからです。


でも、えりりんさんには1ミリも
その方に対しての差別意識はなく
ただただ
そこにある矛盾を見て、


【分離を選べば
当人に苦しみが残る
辛いだろうが選んだのだから
致し方ない】


と、
搾取されていることも全く厭わず
どれだけ無礼があっても
その方が去られたあとにも
変わらずに
アイ.を送り続けていました。


えりりんさんが
自分が傷ついたからということではなくて
その方が自ら破滅に落ちる道を選ぶことに
涙される姿を見て


わたしが知る限りの人智を超えた
その凄みを目の当たりにして、、
自らも省みることになりました。


それと同時に
人間の愚かさとは
こういうことなんだと
学ばせていただきました。


わたしは、悔しい、許せないとか
自分の感情を大切にしたいと思いながらも
暴徒化したその方々に対しても
いまだに向けられているアイ.を
ご本人たちより先に受け取り
満ちて整っていくように感じています。


こんな世界があるんだ、と
この世の感覚ではないような
愛の最終系のような
言葉にならない体感が、今あります。





自分のいちばん痛いところに
光が当たって
思わず暴走してしまう
そのきもちはわたしも分かります。


わたしも病の時代に
それをたくさんやって
失った人間関係や信頼は
図り知れませんでした。


その痛みを知って
自分自身を見つめて
もうぜったいやらない、と
自分と約束をしました。


自分はこんなにも
どうしようもない人間であること
見るのを避けてきた傲慢さを
何度も見つめたら
それは、かならず学びになります。


本当に申し訳なかった
自分が悪かったと反省し
ありのままを見つめ、整えたら
改心する方を、選べます。


暴走した自分をぶつけてしまった方へ
伝えられる環境にあるなら
心から謝罪する
もう会えないなら
心の中で伝えることもできる。


大切なのは
自分に与えられていたものを
思い出すこと
気づくこと。


気づいたら
罪悪感にまみれたり
悔いることよりも
ひたすら改めて、行動すること。


自分の日常の中で
すべてできるのが
本当に恵みです✨


何かから逃げたくなるとき
特に
誠意を尽くしてくれた人
愛情を込めてくれた人から
逃げたくなるとき
無礼をぶつけてしまうときって


ただ、
自分の真ん中から逃げている
自分の真ん中を殺している


それは忘れないでいたい。




鬼滅の刃の映画にも入っている
ストーリーの中で


“あかざ”という鬼が
炎柱の煉獄さん🔥に致命傷を負わせ
朝日が昇りかけたので
必死になってその場を立ち去ろうとします。
(鬼は太陽に当たると死ぬため)


そこで炭治郎が追いかけて
「逃げるな!卑怯者!」と
叫ぶシーンがあります。


炭治郎も深傷を負っていましたが
それでも鬼を追おうとしたのは
正義感や悔しさとかではなく


煉獄さんへの愛
それのみの
発動だったのだと思います。


そんな愛に対して
人がエゴに暴走する姿は
この時のあかざのように
卑怯なものなんだと思いました。


ここでは、煉獄さん+炭治郎と
鬼あかざが対立する
描写になっていますが、


ひとりの人の中にある
暴走するエゴと、対峙する愛の
対比を描いているようにも見えます。


エゴと愛は
善か悪かではとても図れない
一対のものなのに
それを自分の中で統合するのは
なんて難しいんだろう、と
思うこともありました。


嫌いなものはさっさと切り捨てる
エゴってるものは無視していった方が
よほど楽でした。


愛で対峙する、って
一朝一夕でできるものではなく
ものすごく
気力と体力を要するんだと
思うようになりました。


そしてそれをする方というのは
よほどの鍛練を繰り返して
ご自身を育ててきて
他人にも同じエナジーで接することを
積み重ねてきた方なんだ
と思ったのです。



自分の中の、他人の中の
エゴの暴走を見て
愛のエナジーに触れて
どちらにも学びがあることを知り、


いろんな感情を感じて
言葉にならない体感を得て
心が震えたら、


自分は、何を選ぶのか?


いつもそこを
問われているのかもしれません。




最後に、
エゴについて話すわたしに
えりりんさんからのうさぎクッキー一言




エゴエゴエゴエゴゆーけど
エゴと共生する新人類、がんばる❗(笑)


✨✨