もし死ぬなら
そんなことを知らずに
明日死んでしまうならば
テキトーな軽いキモチで欲しいとねだってみたりする腕時計を
買わずに死を迎えるとしたら
あの時計買っておけばよかった!と後悔するだろうか?
死に直面する自分はその腕時計に死の重みよりも執着するほどの欲望があるだろうか?
いや、ないな
腕時計なくても後悔しない
なくても生きていける
なら、要らない!それが答え
明日しか会えないかもしれないひとに大切なキモチを伝えず死ぬとしたらどうだろう?
もし
自分が大切だと思うひとと出会い
同じ空間で同じ時間を共有できるチャンスがあるとしたら
その時間を共有したいという希望を
自分の意思を伝えずチャンスを掴めずに死ぬのと
伝えてみて相手の答えがNOなのでは全く意味が違う世界になる
伝えて叶うものだとわかっているなら簡単なことだけれど
わからないから躊躇する
でも
伝えずに過ぎて離れていってしまうのは死ぬのと同じほどの後悔が残ることだと思う
伝えてNOという返事をもらうなら
それはハッピーなENDであって
悔やむ後悔にはつながらないはず
ならば
それならば
死を基準にして行動するという選択をしてみるのはどうだろう?
曖昧に過ごせばテキトーに終わる
そこまで極端なのもどうかという疑問もあるけれど
死を意識して行動するのとしないのとでは
いろんなことが違って見えてくる
ちと、いや、かなりオーバーな捉え方かもしれないけれど
そうやって考えていけば
大切なものの基準がかわる
どんな時間を過ごしたか?
自分は自分を笑顔にさせられてきたか?
死
いつ来るかわからない
だから
大切にしなくちゃな
子どもの頃は時間なんて永遠だと思ってた
家に帰ればおばあちゃんがいるのが
一目置く存在の叔父の目を気にするのが
子どもの自分には当たり前だった
そこにいつも同じように存在したから
だけど
40年経ったら
当たり前じゃなくなった
祖母も叔父もいない世界になった
自分に家族が増えて
気づけば中年にたどり着いた
世界が変わっていくこと
変わってしまうのだということに
言いようのない不安やドキドキが襲ってくる
さくらって刹那
一年に一度
だけど来年また会えるとは限らない
誰も来週のさくらと約束なんて
できないんだね
きっと春だから
揺らぐ中年のオトメゴコロ
揺らいだら深呼吸して
さぁキモチにいい風吹き込んで
前に向かって行こう
待ってろよ日曜日の
さくらロード!
(๑•̀o•́๑)۶ FIGHT☆ͦ


