久しぶりの巡礼レポートです。

なんと、2019年の春分以来となります。

 

今回は、旅の直前に太ももを怪我してしまいまして、太ももの筋肉は4本あるらしく、そのうちの2本が切れてしまったという整骨院の先生曰く、大惨事だという状態できたが、無事に行ってこれました。今は、御蔭様でかなり回復しております。

過去の巡礼にしても、チンターマニ石の埋設活動にしても、僕は2016年の初期の頃から、参加していたのですが、逆の力というのは働いた経験がなく、いつも順調でした。

しかし、今回、初めてその逆の力が働いたかのような怪我に見舞われました。

世の流れにしても、いよいよ新しい時期に入ったのかな・・・という気がしております。

 

これがもし、闇の攻撃であるとするなら、現在は、2016年当時にくらべて各段に安全になっております。

ただ、僕の場合は、様々なケースで人とは逆の現れや影響があるので、なんだか、僕の保護も、良いも悪いもぐちゃぐちゃうになってきているように思います。

これは、混沌の状態であり、ついに陰から陽に変換する分岐点のようなタイミングだと思います。

いよいよこれから陽に転化していく、そんな期待感を持っています。

そんな節目の巡礼旅と鳴門でのエネルギーワークでした。

 

COBRAが今年の佳境と言っていた8月15日から10月18日の翌日19日から2泊3日の旅が始まりました。

エリスと冥王星の関係を意識したわけではありませんが、たまたま、このタイミングでのスタートとなりました。

20日0:13~のFOL瞑想も旅先からの参加となりました。

 

 

まずは腹ごしらえ、渋滞の為少し遅れて四国入したのでちょうどお昼時になりました。

 

 

平日なのに人気店です。

僕はしまあじ刺身定食1800円を頂きました。

とても美味しい刺身でした。

今度は、天麩羅盛り合わせを頂きたい。

 

さて、お腹を満たしてここから巡礼のスタートです。

けっこう、いろいろと感じさせてくれた旅でしたが、シンプルに旅の記録とさせていただきます。

その辺の内容は、「女神浪漫紀行 外伝」を予定していますので、その物語に落とし込んでいこうと思います。

また、アップした際は、よろしくお願いします。

 

旅の初めは阿波国一之宮  天石門別八倉比賣神社。

御祭神は、大日孁女命(おおひるめのみこと=別名天照大神)

 

つまり、八倉比賣とは、天照大神の地方名ということです。

 

僕は、天照大神とは、おそらく天武天皇時代に創作された国家神だと考えていて、その原型は、三輪山の幸姫命だということは、この七色堂でも述べていました。

この八倉比賣神社には、天照大神が伊勢からここで葬儀が行われた様子が伝わっています。

葬儀があるということは、肉体を持っていたということでしょうか?

それとも、何かの神事だったのか?

又は、何かの象徴的出来事があったのか?

 

社伝によると、「天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の 先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記さ れ、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。」とあり、葬儀委員長が、大地主神(おおくにぬし)とあるように出雲の神が主としてかかわっているようです。

また、「本殿には 出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さ きの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。」とあるように出雲との関わりが見て取れます。

 

当社は、鎮座されている杉尾山を御神体とされており、本殿の奥の古墳上には、奥の院が祀られています。

これが五角形の台座という珍しい形をしております。

また、僕は足が悪いので行けなかったのですが、五角形の井戸も存在しているようで、五角形をシンボルとする人々が関わっていたようです。

 

 

五角形の台座の上に祀られているのが「つるき石」です。

 

今更ながら、鶴石と亀石のつるぎ石とは、塞ノ神だと気付きました。

つまり、縦に首の長い鶴石が、男性の陽石で、女陰をシンボルとする亀石が陰石だということです。

下ネタになりますが、亀頭の収まるのが亀の甲羅であり、亀は女神を意味することにもなります。

今回、現れた八倉比賣は、顔を隠していました。顔を見られると笑われると思ったそうです。

どういうことかと言うと、私たちは姫神というと、こんなイメージを持っていると思います。

しかし、本当は多分、こんな感じのお顔。

だから、イメージを壊さないように顔を隠して現れたようです。

オカメが、お亀で幸神なのもわかると思います。

だから福の神です。

 

対になるひょっとこは、火男(ひおとこ)で風を吹いて火をおこしています。吹くの神でこれも福の神です。

つまり、その原型は幸神だということです。

 

阿波では、この陰石は複数設置されており、丸い石を子宝のようにしています。

それをなんというのか、石板で囲んで祀るのが阿波の岐神(ふなとかみ)の祭祀のようです。

岐神とは、舟戸神(ふなとかみ)であり、久那戸神(くなとかみ)のことです。

つまり幸神信仰ということです。

これよりも、阿波の八倉比賣が、幸姫命と繋がっていることがわかります。

 

 

シンプルに書くつもりがどうしても考察が入ってしまいます。

次に行きましょう。

この麓に史跡公園があります。

古墳もたくさんあるようで、八倉比賣信仰を持つ古代の村が存在していたのでしょうね。

 

次は、もう一つの阿波国一宮。

 

そのまんま一宮神社です。

 

御祭神は、大宜都比売命、別名天石門別八倉比売命を祀っています。

先の八倉比賣神社と同じ神を大宜都比売命という名で祀っています。

つまり、大宜都比売命=八倉比賣=天照大神ということになります。

 

この大宜都比売命に関しては、昔、SNSで書いたことがあります。

今は、Noteに転載しているので、興味のある方は、そちらへどうぞ。

 

 

書いたのは、2014年、今、改めて見ると新しい発見もあるし、考え方も変わってきますね。

この大宜都比売命の神話は、古事記にこうあります。

 

「岩戸隠れの後に高天原を追放された速須佐之男命(素戔嗚尊)が、食物神である大気都比売神(おほげつひめ)に食物を求めた話として出てくる。
大気都比売は、鼻や口、尻から様々な食材を取り出して調理して須佐之男命に差しあげた。
しかし、その様子を覗き見た須佐之男命は食物を汚して差し出したと思って、大気都比売を殺してしまった。
大気都比売の屍体から様々な食物の種などが生まれた。
頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰部に麦、尻に大豆が生まれた。
神皇産霊尊(神産巣日御祖命・かみむすび)はこれらを取って五穀の種とした。」

 

しかし、日本書紀では神名が変えられて。

「天照大神はツクヨミに、葦原中国にいるウケモチという神を見てくるよう命じた。
ツクヨミがウケモチの所へ行くと、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。
ツクヨミは汚らわしいと怒り、ウケモチを斬ってしまった。
それを聞いたアマテラスは怒り、もうツクヨミとは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。

アマテラスがウケモチの所に天熊人(あめのくまひと)を遣すと、ウケモチは死んでいた。
保食神の亡骸の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。
アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ると、アマテラスは喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。」

 

大宜都比売命=天照大神だと、物語に矛盾が生じてくるから食物の神、ウケモチに変えられたのでしょうね。

神話の話は、あくまでお話であり、歴史ではないというのがわかります。

なんらかの事実を形を変えて作られています。その変えたい意図をくみ取れると別の意味合いが現れてきます。

 

 

この神社は、 平安時代後期に、翌日に参詣する一宮大粟神社から国府の近くに分祀してが創建されたようです。

阿波の神社は、駐車場が無くて、神主さんも常住していないようです。

 

御祭神は、わかりませんが、多分、これがここの岐神だと思います。

 

玄松子さんのHPを見ると確認できた境内社は、次の通り。

「若葉神社、社日、猿田彦神社、天神社、大己貴神社・事代主神社、宗像神社、若宮神社、眾灵(シュウレイ)神様」

 

「『徳島県神社誌』によると境内社は以下の通り。
若宮神社・秋葉神社・宗像神社・天神社・地神社・猿田彦神社・大己貴大国主神社・若葉神社。」

 

この中に、岐神がいるのかどうかわかりませんが、可能性のあるのは、猿田彦神社と地神社でしょうか?

 

 

阿波の神社で必ず目にするのが、この五角形の石柱です。

これ、出雲でよく見かけたなと思い出していると、やはりそうで、社日(しゃにち)というそうです。

 

「 社日 

雑節の一で、春分・秋分に最も近い前後の戊の日。社とは中国で土地の守護神、または部族の守護神、その祭祀のことをいったから、社日とは社の祭を営む日のことである。

中国では社の祭は時代や地域によって一様でないが、唐代には立春と立秋後の第五の戊の日をあてたという。

『荊楚歳時記』の一本には、秋分の日に牲をもって社をまつり、仲春の月よりも盛大に祝って、翌年の豊凶をも占ったという。

日本の社日はこの中国から伝来したものであるが、稲作が開始される春と、収穫を迎える秋とに祭る田の神の信仰を基礎に受容したものであろう。現在の習俗でも、春秋の社日には仕事を休み、土をいじらないなどと伝えている。そして東九州や北九州、中部地方などでは、社日様は田の神または作神様といい、この両季に田の神と山の神の去来信仰と同様の伝承をもっている。
-『神道辭典』-」

 

これからも出雲との繋がりが見えそうです。

 

 

ここから近く、同じ一宮町にこの本によるところ、岐神信仰の元の神社があります。

 

船尽比咩神社

小さな神社ですが、氏子さんに大事にされているのが感じられます。

御祭神は、船尽比咩。

フナト姫と名は、今回、旅の計画を立てていて初めて知りました。

フナトの神は、クナトの神です。クナト神は父神で、その妻神をフナト姫と呼ぶなら、それは幸姫命になります。

幸姫命(さひめのみこと)は、現在では、ほとんど名前が残っていません。

かろうじて、そのルーツである出雲の三瓶山がかつては、佐比売山(さひめやま)とよばれていたことくらいです。

そこには、佐比売山神社というのがありますが、幸姫命の名は残っていません。

 

しかし、幸姫命は、天照大神の原型でありイザナミノミコトのモデルであり、様々な名前に変えられて残っています。

阿波では、分かりやすいフナト姫の名で信仰が残っていました。

多分、この女神が阿波の女神であると思います。

 

 

ここでも社日がありました。

今回、参詣した全ての神社に社日が祀られていたと思います。

 

 

ここから少し車を走らせ、船盡比賣(ふなはてひめ)神社へ

小さな祠が祀られていますが、川向の歯の辻神社の遥拝所だそうです。

 

 

ここは、三つ鳥居とよばれる三本の立石が有名らしいです。

 

そして、川向の歯の辻神社、別名船盡神社

画像は、「ぐーたら気延日記」さんより引用

 

 

船盡神社(ふなはてじんじゃ)です。

船盡が舟戸なのは、間違いないと思います。

先程の遥拝所は船盡神社比賣神社で対になっています。

しかし、こちらの御祭神は、 船尽比売尊と天手力雄尊で姫神を主祭神としています。

対にするなら、遥拝所が女神で、こちらが男神になるはずですが、どちらも女神だけです。

天手力雄尊が、男神というわけかもしれませんが、あまりにも唐突感があります。

 

そして、ここにも岐神がいらっしゃいます。

 

大分、日もかげってきました。

この日の巡礼もあと少しです。

次は、朝宮神社です。

 

説明版はありませんでしたが、Wikipediaによると天照大神の荒魂としての瀬織津姫を祀っているそうです。

 

 

今回の神社は、どこも石段が凄くて、足の悪い僕には大変でした。

二本の杖を駆使して参詣しました。

 

ここから宿泊地までは、もう少しなのですが、その前にもう一つ訪れました。

たまたまマップを見ていて発見しました。

 

 

この神社、ストリートビューでも確認することが出来ません。

現地に行ってみないとわからないので、もしかすると辿りつけないかもしれないと覚悟して行きました。

行ってみると、鳥居があったのですぐに分かったのですが、民家の敷地内ではないか?と思うような場所でした。

 

大きな木の下に岐神が三つ祀られています。

3つの岐神は、幸神三神の父・母・子に対応していると考えられます。

 

岐神が、幸神の名で祀られているのは、当たり前に思うのですが、今では貴重な例かもしれません。

若宮というので、主祭神は、幸神三神の子神、サルタヒコかな・・・と思うのですが、確認がとれません。

ここに訪れた時に、真っ先にアラハバキ神が思い浮かびました。

アラハバキは、幸神の別称です。

もしかすると、この幸神社のような様式が、阿波信仰の原型なのではないか・・・と感じました。

僕的には、今回の旅での一番のお気に入りとなりました。

因みに、石板に囲まれた中に祀られている石のお社は、鶴亀の鶴で、男性のシンボルをデザイン化しています。

だから和合しているのです。

 

これで一日目の旅を終えました。

宿泊地は、神山温泉でした。

 

 

 

ここで、FOL瞑想に参加しました。

やはり疲れていたので、少し眠ったのですが、目が覚めると、ジャスト0:13で、慌ててそのまま瞑想に入り、終了後眠りにつきました。

大事な時は、体内時計が起こしてくれます。

 

   つづく