安丸良夫著

神々の明治維新(P177~)より粋抜

 


権力と民俗との対抗

 政治権力と民俗的なものとの対抗というこの構図には、すでに近世中後期以降の長い由来があった。祭礼と若者組の制限や禁止、強制的な勧化の禁止、流行神や淫祠の禁圧、博奕・芝居・踊の禁制などは、幕府や藩の法令のなかにしばしば見出すことができる。しかし、こうした禁制は、一時的にはともかく、幕藩制の動揺と解体の過程ではけっして有効ではなく、むしろこうした民俗的な様式を通して民衆の欲求とエネルギーとが社会の表相へ表出されていったのである。
 ところが、廃藩置県をおえて集権国家としての体制をととのえた明治政府は、こうした民俗的なものへの抑圧をいっきょに強めていった。教部省と大教院による強化政策も、よりひろい視野からみれば、この開明的専制主義の一環であり、神仏各派は、その大合唱に加わることで、みずからの存在意義を政府に認めさせようとした。また、民俗的なものに対立するという点では、ようやく数を増やしてきた開明的な新聞・雑誌類もおなじ立場にあり、反政府的な新聞の方が、民俗的なものへの対抗意識がいっそう強烈でさえあった。
 民俗的なものへのこうした抑圧策は、全国的にみれば、六十六部の禁止(四年十月)、普化宗の廃止(同上)、修験宗の廃止(五年九月)、僧侶の托鉢禁止(同十一月)、梓巫・市子・憑祈祷・狐下げなどの禁止(六年一月)、祈祷・禁厭をもって医薬を妨ぐる者の取締り(七年六月)などが重要な画期であり、これらの禁令は、それぞれの地域で、地方官の啓蒙的改革への情熱にもとづいて実施されていった。
 そして、これらの伝統的な宗教活動の禁止は、産穢をきらわないとか、女人結界を廃止するとか、僧侶にも妻帯・蓄髪を許すとかいう、それ自体をしては開明と啓蒙の政策ともあい補うものであり、また裸体・肌ぬぎ・男女混浴・春画・刺青などの禁止とも結びついていた。素人相撲・門付の芸人・万歳なども、あるいは禁じられ、あるいは改められた。民俗的なものは、全体として猥雑な旧習に属し、信仰的なものはその中心的な構成要素であった。


民俗信仰の位置

 民俗信仰が猥雑な旧慣になかに一括されて、啓蒙主義的な確信にもとづく抑圧策の前では、ひたすらに否定的にしか意味づけられないものであったということは、ここでとりあげている分割線の設定にかかわって、もっとも留意すべき点である。というのは、この枠付けによって、民俗信仰の抑圧は、強権的なものとしてよりも、はるかに権威づけられら啓蒙や進取のプラスの価値として、人々に迫ることになるからである。
 一方に猥雑と懶惰と浪費と迷信があり、他方に良俗と勤労と文明と合理性があるというとき、誰も前者に積極的な意味をあたえて、これを後者に対決すべきものとしてつきつけることはできない。こうして民俗信仰の世界は、意味や価値としての自立性をあらかじめ奪われた否定的な次元として、明治政府の開化政策にむきあってしまう。政府の開化主義的な抑圧政策にたいして、不安・不満・恐怖などが不可避的に生まれても、しかしそれは、筋道たてて意味づけられて表わされることのできない鬱屈した意識(むしろ自己抑圧された下意識)として、漠然と存在するほかない。そして、そのためにまた、権力の抑圧性とそれにたいする不満や不安なども、時間の経過のうつにしだいに意識下の次元に葬られ、開明的諸政策とその諸理念が曖昧に受容されてしまうのであった。