安丸良夫著

神々の明治維新(P48~)より抜粋

 

復古の幻想

 よく知られているように、維新政権は、岩倉ら一部公家と薩摩藩が提携したクーデターによって成立したものだった。慶応三年十二月九日の小御所会議とつづいて発せられた王政復古の大号令は、二条・九条・近衛など名門の公家を斥け、越前藩・土佐藩など有力諸藩の主張をおさえて強行された。それは、薩摩藩の武力をよりどころにしたクーデターにほかならず、やがて上京してきた長州藩がこれに加わった。薩長両藩が幼い天子を擁して幕府権力を追い落としたというのが、当時の人々の一般的な見方であり、鳥羽伏見の戦いの勝利のあとでも、諸藩の向背はまださだかではなかった。
 こうした状況のなかで、岩倉や大久保がみずからの立場を権威づけ正統化するために利用できたのは、至高の権威=権力としての天皇を前面におしだすことだけだった。小御所会議で、「幼冲ノ天子ヲ擁シテ……」と、急転回する事態の陰謀性をついて迫る山内容堂に、「聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ。今日ノ挙ハ悉ク宸断ニ出ヅ。妄ニ幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄ヲ摂取セントノ言ヲ作ス、何ゾ其レ忙札ノ甚シキヤ」(『岩倉公実記』)と一喝した岩倉は、こうした立場を集約的に表現したといえる。
 神祇官再興や祭政一致の思想は、こうして登場してきた神権的天皇制を基礎づけるためのイデオロギーだったから、その意味では、この時期の岩倉や大久保にとって不可欠のものだった。しかし、冷徹な現実政治家である岩倉や大久保と、神道復古の幻想に心を奪われた国学者や神道家たちとのあいだには、神祇官再興や祭政一致になにを賭けるかについて、じっさいには越えることのできない断絶があったはずである。このことを長い眼で見れば、神祇官再興や祭政一致のイデオロギーは、政治的にもちこまれたものなのだから、将来いつか政治的に排除される日がくるかもしれないと予測することもできよう。しかし、さしあたっては、そうした幻想にとらえられた国学者や神道家に、時と処とを得た活動のチャンスがあたえられることとなった。