前回からの続きです。

 

初日最後のポイントは、淡島神社です。

ここは、米子という地名の由来となった地だとされています。

ここ淡島村に住んでいた長者には、子供がいなかったのですが、八十八歳の時に初めて子を授かり、その子孫はたいそう発展したといい、縁起の良い八十八の子ということで、米子と呼ばれたそうです。

因みに、米という漢字を分解すると八十八になります。

 

 

淡島神社というと和歌山県加太市の淡島神社が有名です。

僕も一度訪れました

御祭神は、いずれも少彦名命です。

米子の淡島神社には、こんな由緒が残されています。

「733年(天平5年)の『伯耆国風土記』(逸文)では、こびとのスクナビコナ(少彦名命)がこの地で粟を蒔いて、実ってはじけた粟の穂に乗って常世の国へ渡り、そのために粟島と呼ばれている、と書かれている。(つまり、粟島は少彦名命の現世での最後の地、ということになる。)

 

『日本書紀』でも同じような逸話があり、スクナビコナが淡島(粟島)で粟茎に弾かれて常世へ渡ったとされている。

 

民話では、こびとであるスクナビコナが天界から下界の海へ落ちてしまい、空豆の皮で船を作って伯耆の島(のちの粟島)に漂着する。そこで出雲の神であるオオクニヌシ(大国主)と知己になる。スクナビコナが排便すると、天界にいた頃に食べた粟の実の種が出てきたので、これを島に植えたところ数年で島は粟が一面に広がった。すると、アワ畑に据えられた案山子のお告げで天界に戻るように命を受け、粟の茎を曲げて穂につかまり、茎がまっすぐに戻る力で天界へ飛んでいった。このことから、オオクニヌシはこの島を「粟島」と名づける。」ウィキ淡島神社の項から引用)

 

淡島神とは、少彦名命のことで、この淡島が最後の地ということです。

そして、ここは今や陸続きなのですが、江戸時代中頃までは、島でした。

 

夕暮れ近い時刻にこの淡島へ訪れました。

 

ここからも大山はよく見えます。

 

創建時は、不詳。

御祭神は、少彦名命(神功皇后、大国主命)

古来より島自体が神山でした。

なので、石段を登って行きます。

 

途中、こんなものが・・・

マムシのほこらですか?

荒神とは、三宝荒神もそうですが、幸神と関係が深いものです。

荒神も幸神もコウジンと読めます。

そして幸神信仰は蛇神とも非常に強い結びつきがあります。

つまり、これは幸神信仰を表している可能性が高いです。

で、その祠は、

多分、これ。

もしくは、

 

幸神(サイノカミ)信仰は、古代出雲の国教でありながら、塞ノ神(サイノカミ)信仰に姿を変えられ本来の姿を消されていきました。

おそらくここでも、その信仰は、隅に追いやられたのではないかと想像できます。

 

石段に戻りまた昇っていくと神社に着きます。

 

ここで、未だにデジカメを使いこなせない僕は、時々意図しない操作をしてしまって思うような画像が撮れなくなってしまいます。

ここでも、おかしな操作をしてしまったようで、画像がダブってしまいました。

霊現象とかでなく単なるカメラの不調ですが、面白いので少しアップしておきます。

というか本殿の画像が撮れていませんでした。

本殿の前で同行者は巫女鈴を鳴らしながら巫女舞を舞っていました。

幸い、この一瞬は誰も参拝者がいませんでした。

 

参拝後、石段を下ります。

途中に祀られていた境内社に寄りました。

 

最初の登り口まで戻ると、今度は島の周囲を歩きました。

そこには、豊受宮が祀られています。

 

 

さらに周囲を進むと、大岩宮があります。

 

少彦名命が最初に上陸された地らしいです。

 

 

さらに進むと、静の岩屋があります。

 

この洞窟は八百比丘尼の伝説が残っています。

「地元の漁師の娘が、それと知らずに人魚の肉を食べてしまい、不老不死になってしまった。娘は出家して、粟嶋の西側にある洞窟「静の岩屋」で隠遁生活を送り、一切のものを口にしなかった。娘は800歳を迎えて死に、「八百比丘尼」と呼ばれた。」ウィキ淡島神社の項から引用)

 

八百比丘尼の伝説は広範囲に残っていますが、不老不死になってしまった彼女は、この洞窟に籠って死を迎い入れたという話になっています。

さて、この洞窟ですが、今はこうなっています。入ることはできません。

 

 

 

おそらく、洞窟の上の部分だけが残り、その下は埋もれていまっているのでしょう。
対岸は、このように干拓されているのです。

かつては、ここは海でした。
さて、伝承を追っての旅を続ける僕にとって、この洞窟が目的でした。
勝友彦著「親魏和王の都」P21にはこう書かれています。
「東出雲家の八重波津身(事代主)は、夜見が浜の淡島で枯死する事件があった。事代主は後に、七福神の「恵比寿さま」として祀られることになる。」

この伝承の概略をまとめてみると、徐福が出雲に訪れていた時、時の第8代出雲王ヤチホコ(=大国主命)が園の長浜で行方不明になりました。
副王ヤエナミツミ(=事代主命)は、その時、島根半島東端の美保の海岸で魚釣りをしていた時にその知らせを受けました。
そこで、大国主捜索に向かう事代主ですが、彼もまた行方不明となりこの淡島の洞窟で死体が見つかったと伝わっているそうです。

由緒では、淡島は少彦名命が常世へ旅立たれた地、すなわち死んだ地。
そして、八百比丘尼はこの洞窟で食を経ち衰弱死したという。

古代出雲では、王をオオナムチと呼び、副王をスクナヒコと呼んでいたといいます。
つまり、スクナヒコは代々継がれる役職名です。
そして、事代主命の名で知られるヤエナミツミは、第8代のスクナヒコです。
事代主命は、この淡島で死んだのかもしれません。
そして、その洞窟は、米子の名から、八の名を持つ八百比丘尼の終焉の地として名を変え語られたのかもしれません。

 

 

万葉集には、この岩屋は事代主が住んでいたと詠まれています。

「大汝(おほなむち) 少彦名(すくなびこな)の いましけむ 志都(しづ)の石屋(いはや)は 幾代経ぬらむ」

訳:大国主と 少彦名が 住んでいらっしゃったという 志都の岩屋は 幾代を経たことだろう


さて、同行者は、この洞窟の前でも舞いました。
夕日に照らされすごく綺麗でした。


ところで、ここで一つアクシデンがありました。
舞をするため、携帯電話を一時、祠の前に置いていたのですが、舞を終え携帯電話を手にするとストラップの糸が切れていました。
ストラップには、五十鈴がついていました。

感覚では、この地で巫女舞というエナルギーワークを行ったため、この時ここで、エネルギーのポータルが開いたのではないか・・・と推測され、それが巫女鈴と五十鈴が共鳴し、エネルギーに耐えられなかった糸が切れたのでは・・・・なんて妄想をしてしまいました。
ほんと、何の物理的力も働いていないのに糸が切れていたのです。

もしくは、勝手に舞った同行者を淡島の神が諫めたのでは・・・・という可能性も考えましたが、嫌な感じは全く受け取れませんでした。
実は、この巡礼は、あるグループの浄化活動に協力するものでもあり、光の勢力を支援するものでもありました。故にこの活動を行うものは、闇の勢力の妨害や攻撃を受ける人が少なくないのです。
なので、これも闇の攻撃というか嫌がらせの可能性も考えました。
しかし、その後も今も何も悪い障害を受けていないので、不思議な現象でしたが、理由もわからず気にもしていません。
そうそう、その後も・・・と言いましたが、3日目の広島滞在のホテルで、同行者がしていた保護の為の最も高い振動を持つパワーストーンのペンダントの鎖が切れたわけでもなく外れてしまいました。
これも不思議な現象でしたが、こういう旅をしているといろいろあるものです。

淡島神社を後にしてこの日の宿泊地に着くと、山羊が出迎えてくれました。
名をロンといい営業部長と草狩の仕事を兼ねているそうです。
この日泊まったところは、皆生温泉です。
前に泊まった皆生温泉の宿は、海岸べりでとても快適な旅館でした。
しかし、今回は宿泊代が高くなっていて変更をしました。
外国観光客の増加で、全体的に宿泊代が高くなってきているように感じます。
観光産業が潤うのは良いですが、日本人が宿泊しにくくなるのは嫌ですね。
今回のお宿は、「夢寛歩 皆生」です。
極力レベルを落とすことなく安価で泊まれました。
明日は、出雲です。

   続く