前回の日記からの展開を続けます。
あくまで、伝承を元にした考察ですが、元伊勢伝承は、三輪山から逃れた月神の姫巫女豊来入姫と、日神の姫巫女サホ姫のルートという二つの姫巫女の逃避行が、豊鍬入姫と倭姫による天照大神の遷宮として伊勢に鎮座するまでの伝説となったと考えました。

そして、倭姫が向津姫と呼ばれていたという伝承より、三輪の姫巫女が瀬織津姫創作のモデルではないかと推理したのです。


さて、今一番気になるのは、サホ姫です。
ウィキ によると、
「記紀に伝えられる垂仁天皇の最初の皇后(垂仁天皇2年2月9日立后)で、皇子誉津別命(本牟智和気御子)の生母。
同母兄に狭穂彦王(沙本毘古)がおり、垂仁天皇治世下における同王の叛乱の中心人物。
『日本書紀』では狭穂姫命、『古事記』では沙本毘売命、または佐波遅比売命に作る。」

また、
「特に『古事記』中巻では倭建命の説話と共に叙情的説話として同書中の白眉とも評され、また同じく同母兄妹の悲恋を語る下巻の木梨之軽王と軽大郎女の説話と共に文学性に富む美しい物語とも評されている。」

と、垂仁天皇の后でありながら、天皇を裏切った反乱軍の中心人物でありながら、彼女の物語は、文学性に富む悲劇の女王として語られています。

なぜ、天皇に歯向かった裏切り者に対してこのように美化されているのか?
僕は、彼女の祟りをおそれたのだと思います。
つまり、サホ姫はひとかどならぬ、霊力の持ち主だったのだと推測します。

伝承によると、垂仁天皇ことイクメ王がサホ姫を利用し大和をある程度治めたあと、サホ姫とサホ彦を裏切り三輪山から追い出しています。
事実は逆なのです。
よって、三輪山祭祀の姫巫女であるサホ姫を悪者にしたてると祟られると記紀の作成者は考えたのではないでしょうか?


では、サホ姫は本当に巫女だったのでしょうか?
狭穂姫伝承の鏡池が残る奈良の狭岡神社の記事を書かれたこちらのブログ に興味深い考察があったので、引用します。
「そして古事記によれば、狭穂姫はどうも、巫女的な性格があったように思われるんです。
       
それは、狭穂姫が炎の中で死のうとするくだり、引き留めようとする垂仁天皇は、こんなことを彼女に聞いています。
「あなたの結び堅めた衣の紐はだれが解くべきであるか」と。
       
有名な、折口信夫の『水の女』には、こんな一節があります。
「みづのをひもは、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。瑞という称え言ではなかった。このひもは『あわ緒』など言うに近い結び方をしたものではないか。
天の羽衣や、みづのをひもは、湯・河に入るためにつけ易えるものではなかった。湯水の中でも、纏うたままはいる風が固定して、湯に入る時につけ易 えることになった。近代民間の湯具も、これである。そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。すなわ ちこれと同時に神としての自在な資格を得ることになる。後には、健康のための呪術となった。が、もっとも古くは、神の資格を得るための禁欲生活の間に、外 からも侵されぬよう、自らも犯さぬために生命の元と考えた部分を結んでおいたのである。この物忌みの後、水に入り、変若返って、神となりきるのである。だ から、天の羽衣は、神其物の生活の間には、不要なので、これをとり匿されて地上の人となったというのは、物忌み衣の後の考え方から見たのである。
さて神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。みづのをひもを解いた女は、神秘に触れたのだから、神の嫁となる。おそらく湯棚・湯桁は、この神事のために、設けはじめたのだろう。」
       
つまり、狭穂姫は、現人神である垂仁天皇の「みずのをひも」を解いた「水の女」ではなかったのか、と。

(引用終わり)

狭穂姫は水の女、つまり巫女だというのは、僕の姫巫女説を補強する古事記からの推論です。
水の女は、とても興味深いです。
奪衣婆が瀬織津姫だと言われているのも関係あるかもしれません。
奪衣婆(だつえば)とは、三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆です。

衣服をはぎ取るには、衣の紐を解かねばなりません。
なぜ、死に行く狭穂姫に対して、垂仁天皇は、姫の衣の紐は誰が解くべきなのか?と問うたのでしょうか?



ところで、元伊勢の倭姫の行程で尾張に遷宮した記述があります。
僕は、近江、美濃、尾張は、倭姫ではなくサホ姫が三輪山から豊国軍に追われた際の逃避行だと書きました。
尾張国では、中島宮が置かれ、この地はほぼ一宮市内に比定されているようです。

この一宮市に興味深い神社が鎮座しております。
阿豆良神社といいます。
祭神は、天甕津媛命
そして、配祀に倭姫命

この神社の由緒は、『尾張国風土記』吾縵(あづら)の郷の條に語られています。

「丹羽の郡。吾縵の郷。巻向の珠城の宮に天の下をお治めになった天皇(垂仁天皇)のみ世、品津別の皇子は、生まれて七歳になっても口をきいて語ることができなかった。
ひろく群臣に問われたけれども、誰一人よい意見を申し上げるものがいなかった。その後、皇后の夢に神があってお告げをくだし給い、「私は多具の国 の神、名を阿麻乃弥加都比女というのだ。私はまだ祭ってくれる祝をもっていない。もし私のために祭る人を宛てがってくれるならば、皇子はよく物を言い、ま た御寿命も長くなるようになる。」といった。
帝は、この神が誰で、どこにいるのかを探しだすべき人を占わせると、日置部らの祖建岡君がその占いに合った。そこで神をたずねさせた。
その時建岡君は美濃の国の花鹿の山に到り、榊の枝を折とって縵に造り、祈誓して「私のこの縵が落ちるところに必ずこの神がいらっしゃるだろう」と いったところが、縵はとび去ってここに落ちた。そこで神がここにおいでになると知って社を建てた。この社名によって里に名づけた。後の人は訛って阿豆良の 里という。 」


垂仁天皇と狭穂姫の子、品津別の皇子は、長く口のきけない子でした。
その原因を夢のお告げで、自分を祀れと訴えた阿麻乃弥加都比女という女神を祀る神社がここです。

品津別皇子を呪っていた女神なら、わざわざ原因を告げにこないでしょう。
祟りとは、第三者の占いによって特定されるもので、自己申告するものではないのですから。
むしろ、かの女神は、品津別皇子が話せるように現れたわけですから、ある意味、品津別皇子を守護しているとも考えられます。

もしかすると、わが子を思う母親の念だと考えられないでしょうか?
品津別皇子の母は、狭穂姫です。
僕は、サホ姫は三輪山の姫巫女であり、この姫巫女は代々向津姫と呼ばれていたのではないか?と推理しました。
向津姫とは、東出雲王家の向家の姫という意味です。

阿豆良神社のご祭神をもう一度、確認すると、天甕津媛命(あめのみかつひめ)という名です。

この女神は、先の尾張国風土記だけでなく出雲風土記にも記されている女神です。
「『出雲国風土記』出雲郡の伊農郷に坐す赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の妃・天甕津日女命。 国内をご巡行になった時に、伊農郷にお着きになっておっしゃったことには、「ああわが夫よ、伊農よ」とおっしゃった」とある。」

「また『出雲国風土記』楯縫郡に、阿遅須枳高日子根の后、天御梶日女の命が、多具の村においでになって、 多伎都比古の命をお産みになった。その時、胎児の御子に教えて仰せられたことには、 「おまえの御父上のように元気に泣きなさい。生きてゆこうと思うならば、ここがちょうどいい」とおっしゃった。とある。」
玄松子さんのHP より引用)


要するに出雲の女神なのです。
おそらく、それぞれ向家の姫の事が記述されたのだと考えます。

もうわかるかと思いますが、
甕津媛(みかつひめ)とは、
向津姫(むかつひめ)のことなのだと思うわけです。


そう考えると、阿豆良神社のご祭神である天甕津媛命とは、サホ姫のことだということになります。
そして、倭姫が配祀されているわけは、元伊勢伝説においてサホ姫の行為を倭姫に変えられたため、サホ姫を祀る神社に倭姫を添わせたと考えられるからです。


それから、この神を占った日置部ですが、
「世界大百科事典 第2版の解説
ひおきべ【日置部】

〈ひきべ〉〈へきべ〉などとも読む。日置を戸置(へき)の意に解し,民戸をつかさどるものとする説(伴信友,栗田寛),日招きや宮廷の日読(かよみ)をつかさどるものとする説(柳田国男,折口信夫),さらには卜占暦法を主とし太陽祭祀に従事する者という見解も出された。

一方,神事や祭祀にかかわり合いながら,それらの手工業生産にも当たる性格も指摘されてきた。

もともと日置氏は宮内省主殿寮殿部(とのもり)の負名氏(なおいのうじ)の一つで,本拠は大和国葛上郡日置郷にあり,地縁的にも職掌的にも同じ負名氏の鴨氏と類縁の関係にあったと考えられている。」


奈良の鴨氏に関係のある太陽祭祀に従事する者だということです。
つまり、三輪山の太陽の女神を祭祀する姫巫女と関係の深い者ということになります。
この日置氏が、天甕津媛命を占ったというのも、天甕津媛命が、三輪山の太陽の女神を祭祀する姫巫女だからだと考えられないでしょうか?
「建岡君は美濃の国の花鹿の山に到り、榊の枝を折とって縵に造り、祈誓して・・・」というのも、向津姫の正式名である、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命のツキサカキの祭祀に共通するように思います。

余談ですが、出雲風土記に、天甕津日女命は、国内をご巡行された女神だという記載があるのは、興味深いです。




長くなりますが、続けます。
甕津姫は向津姫のことだと書きました。
阿麻乃弥加都比女(天甕津日女)を祀る阿豆良神社について口のきけないわが子品津別皇子を思う母親の念が、由緒だと想像し、その母とは、狭穂姫であり、天甕津日女とは、狭穂姫のことだと推理しました。


神道的に見るなら、前述のこの由緒は祟りだとみるほうが良いのかもしれません。
自分を祀れば上手くいくという夢のお告げは珍しいものではないと思います。
有名なのは、崇神天皇の時代の大物主神の話でしょうか?

「崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむ れば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依比売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、 天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。」
wiki大物主の項 より引用)

阿豆良神社の由緒とプロットは同じです。
良くないのは自分を祀らないからだ。もし祀れば上手くいくよ。と夢のお告げがあったので、神社を建てたという話です。

僕は、これを祟りだとは思わないのですが、神道的に見ると神には、良い悪いの影響があり、これを神祀りによって、良い方に向けるというのが神道の考えです。
だから、悪い影響を祟りだと考えると、神祀りをしていないことは、祟りを招く原因だと言えるのです。


では、阿豆良神社の由緒が、天甕津日女の祟りから始まったと考えると品津別皇子を祟る存在といえば、非業の死をとげた狭穂姫が一番に思い浮かぶのです。
なので、やはり天甕津日女は狭穂姫だと考えてしまうのです。

現実的には、祟りではないと思います。
狭穂姫と品津別皇子の親子を不憫に思った、おそらく狭穂姫の子孫かなにかが、狭穂姫の霊を慰めたのでしょう。
もしかすると、母を裏切った父の仕業に皇子がショックを受けて言葉を失っていたという解釈は現実的かもしれません。
古事記では、出雲大神の祟りで、垂仁天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わし、大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったといいます。


ところで、前述の三輪山の大物主神ですが、大物主櫛甕魂命(おおものぬしくしみかたま)という名なのですが、甕の字がここにも付きます。
伝承によると、最初に三輪山に祀られた神は、事代主神と佐姫命でした。
事代主神は、最初に大和王朝を築いたクシヒガタの父で向家出身です。後に事代主神は大物主神に変えられています。
甕(ミカ)は向(ムカ・ムケ)の暗喩なのかもしれません。

なので、やはり甕津姫は向津姫なのだと思います。
そして、阿豆良神社の天甕津日女は狭穂姫なのだと思います。
前にも書きましたが、阿豆良神社の近くには、元伊勢中島宮の比定地が固まっています。
滋賀、岐阜、愛知も元伊勢は、倭姫ではなく狭穂姫の足跡だと考察しました。

ならば滋賀や岐阜にも天甕津日女を祀る神社があっても良さそうです。
「祭神 天甕津日女」で検索するとあまりヒットしません。
阿豆良神社の他は、玄松子さんのHP を参照すると

伊努神社:島根県出雲市西林木町
多久神社:島根県出雲市多久町
久多美神社:島根県松江市東忌部町
忌部神社:島根県松江市東忌部町
花長上神社:岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲名礼

ほとんど出雲です。天甕津日女は出雲の女神なので当然です。
しかし、そこに岐阜の花長上神社が混ざっています。
この神社は、元伊勢伊久良河宮(いくらがわのみや)の跡とされる天神神社 の北15km位に位置しています。

出雲以外で数少ない天甕津日女を祀る神社が、尾張と美濃に鎮座しているのは偶然でしょうか?

では、近江はどうでしょうか?
残念ながら天甕津日女を祀る近江の神社は見つけられませんでした。しかし、狭穂姫を祀る神社が存在しています。
佐波加刀神社(さわかとじんじゃ) と、
御霊神社 (ごりょうじんじゃ) です。


近江と出雲系というか大和磯城王朝とは関係が深く、伝承では、ナガスネヒコは大和を追われ一時、野洲に宮を築いたとか・・・野洲の銅鐸はその当時の遺物であるという話があります。

9代開化天皇の子孫も近江に移住しており、彦坐王は三上の姫を妃にしていますし、彦坐王を祀る神社もあります。

近江を頼って狭穂姫らが逃げたのは当然だと思いますが、この辺りの話は、もう少し調べて別の機会に報告すべきだと思います。



おそらく、狭穂姫の逃避行ルートは、三輪山から伊賀、甲賀、もしかすると野洲川を下り、陸路を北上か、琵琶湖上を北上、そして米原あたりから岐阜へ、そして一宮という線が想像できます。
これが、倭姫の元伊勢伝説に繋がっていると思うのです。


たしかに、伊賀は多くの元伊勢伝説が残っています。
なので、伊賀でも狭穂姫もしくは天甕津日女を祀る神社が存在しないと、僕の考えは裏付けされません。

しかし、残念ながら今のところそれを見つけることはできませんでした。
やっぱり、単なる憶測にすぎないのでしょうか?
ただ、一つ可能性を考えるなら、こんなことが考えられます。


伊賀は、あまりにも大和に近いため、狭穂姫をモロに祀れなかった。
よって、名を変えて祀ったという可能性です。
では、どの神を代替えとしたのでしょうか?

僕の答えは、木花開耶姫です。
伝説による木花開耶姫は、
「天孫邇邇芸命が日向の高千穂峯に天降りされた後、吾田(あた)の笠紗(かささ)の岬で絶世の美人に出会った。
「誰れの娘か」と問われると、大山津見神の娘で名は神阿多都比売、またの名を木花之佐久夜毘売」と答えられた。」
大山津見神の娘、木花開耶姫は、瓊瓊杵尊と九州で出会い結婚しています。

伝承では、
「イニエ王(御真木入彦)は、都万国に都を作った。またイクメ(宮崎市生目)に住み、そこで阿多津姫との間にイクメ王子を生んだ。
イクメを生んだ阿多津姫は早くに死去した。
都万の都でなくなった阿多津姫は、都万神社に祀られている。北部には西都原の地名が残っている。 」
木花開耶姫のモデル、阿多津姫は、九州でイニエ王と結婚し、イクメ王を設けました。

イクメ王とは、垂仁天皇のモデルですから、木花開耶姫は、イクメ王の母ということになります。
垂仁天皇(イクメ王)の妃狭穂姫は、木花開耶姫の娘という間柄にもなります。

つまり、阿多津姫と同じく、狭穂姫も木花開耶姫という創造神の名で祀られたのではないか・・・と考えたのです。
事実、木花開耶姫と狭穂姫は、火中出産という炎に焼き尽くされる中で子を生んだという共通項があります。

狭穂姫と同名異神(僕は同源だと思っていますが)と言われる佐保姫は、春の女神だとされていますが、春といえば芽吹く季節そして花咲く季節です。
木花開耶姫は、花咲く季節に山から下りてきて里の花を咲かせる女神だとされますが、これも同質を感じさせます。


ここで注意すべきは、僕は狭穂姫が木花開耶姫だと言ってるわけではないのです。
イクメ大王に裏切られ、大和から逃避行をする狭穂姫は、その道中でかつて三輪山の姫巫女として信仰の対象ともなった姫を慕う民によって、狭穂姫を祀られた。
しかし、狭穂姫は反逆の姫として記紀に語られ、狭穂姫を実名で祀ることは王朝によって禁じられ、しかし、その霊力ゆえ祀らないということは、祟りを恐れるあまり、代替えの信仰を強いられた。それが木花開耶姫という、別の機会に創作された姫神だったということです。
もちろん、全ての木花開耶姫信仰が、狭穂姫だというわけではありません。


近江では、磯城王朝との繋がりが強くまた勢力もあったために、狭穂姫という実名での祭祀が可能だった。
大和から少し離れた美濃や尾張では、木花開耶姫という代替え祭祀に良しとしない民が、向津姫の本家、出雲で向家の姫を天甕津日女として祀っていることを知って、狭穂姫を木花開耶姫ではなく天甕津日女として祭祀したのではないか。
しかし、大和に近い伊賀では、そういった逃げ道がなく王朝の意向とうりに木花開耶姫を狭穂姫の代わりに祀ったのではないかと思うのです。

伊賀には、木花開耶姫を祀る神社は少なくないと思います。ただ、伊賀は明治の合祀によって様々な祭祀が混ぜられ合祀されているので、その過程を知ることは難しいです。
なので、あくまで想像の域を越えられません。


狭穂姫、向津姫、瀬織津姫、木花開耶姫。
これらの姫神が密接にリンクしてきます。
瀬織津姫が木花開耶姫だという俗説がありますが、狭穂姫を介して考察するとまんざらでもないのかもしれません。

もう一つ、これも想像ではありますが、
木花開耶姫には、木花知流比売(コノハナチルヒメ)という姉妹がいます。
僕は、木花開耶姫と木花知流比売と石長姫が三姉妹だと以前ブログに書いたところ、知人から、木花開耶姫と石長姫は、それだけで完結している神話で あり、木花知流比売は、花が咲くと散るという対比による、いわばオッサンギャクみたいなものだから、三姉妹として認識すべきではないと言われました。

もしかすると、サクヤ姫は、伝承によるイニエ王の妃として幸ある人生を送ったが、チル姫は狭穂姫としてイニエの息子であるイクメ王に裏切られ不幸せな人生を送った暗喩として創作されたのではいかと思うのです。


木花知流比売は、古事記にしか登場しませんが、スサノオとクシナダヒメの子の八島士奴美神(ヤシマジヌミノカミ)の妻とされています。

伝承によるとスサノオは、最初の渡来で天火明と名乗り、二回目の渡来でニギハヤヒと名乗ったとあります。
そしてクシナダヒメは、出雲の幸姫命の田の神バージョンなわけです。
つまり、父系スサノオ=ニギハヤヒと母系幸姫命=向家という図式の中で、そこから生まれたイクメ大王と狭穂姫を意味していると考えられるのです。



いつも言うようにあくまで伝承を元にした考察ですが、瀬織津姫、元伊勢が狭穂姫を鍵に考えると、いくつかの現象が意味を持って繋がりを見せます。
もし、伝承が嘘だとされると、逆にこの繋がりに別の意味を見出さないといけません。



今回は、瀬織津姫という女神について僕なりに最新の追及をした結果がこのようになりました。
瀬織津姫は、皆の言うように縄文の女神ではなく、縄文から続く出雲の女神を祭祀した三輪山の姫巫女をモデルとして創作された祓いの女神です。

そして次に必要なのは、創作された女神というなら、その創作の意図を探ることだと思います。
おそらくこれは、天智天皇時代の近江で創作されたと考えられます。
そのモデルは三輪山の姫巫女であり、おそらく「水の女」と呼ばれる天皇に仕える巫女。

ただ、これは次の課題でもう少し研究が必要だと思います。またいつかこの事を報告できれば良いと思います。
が、今は、これまで。。。