頭はただしく使うもの

 

多くの人が、『自分はかならず死ぬんだ』という自覚が欠如しているように思います。

 

自覚というのは、たんに

 

『人間がかならず死ぬということぐらい知っているよ、あたりまえじゃないか』

 

といったレベルの認識ではなくて、もっとリアルに自分の死というものを意識しているということです。

 

 

もちろん、他の生物同様に人間には強力な生存本能があるので、そのようなリアルな死の認識はふつうに生きているだけでは、もてないようになっています。

 

ただ、人間には他の生物よりもおおきく発達した大脳があるので、死をリアルにイメージし、それをあたりまえのものとする覚悟をもつことはできるのです。

 

そして、そのような境地になることによって、人生は一変して、この世での生活も極楽にいるかのように幸せにつつまれ、自由闊達に過ごしていくこともできるようになるのです。

 

これが、本当に頭を使うということですね。

 

 

にもかかわらず、大多数の人が『自分は死とは無縁だ』という、真理以前に、自然界の絶対不変の事実にも反している意識で生きているんですよね。

 

わたしからすると、日々の生活に不平不満をもらし、怒りや悲しみや徒労感にさいなまれながらの人生をおくっているのに、なんでそんなにこの世に執着しているんだろうと不思議でたまりませんが、それでも『あの世よりは、この世のほうがずっとましだ』と思っているんでしょうね。

 

なので、世の中を見まわしてみると、社会のルールや一般常識から倫理、哲学、道徳、人生観にいたるまで、【人間は死なない】といった前提で形作られているものばかりになってしまっています。

 

そして、これこそがこの世をつらく苦しいものにさせているおおきな一因なんですよね。

 

 

典型的な例では、ひと昔前の医療の現場が挙げられます。

 

人の生死をあつかう医療の世界でも一般人と同様に、

 

『死が絶対悪で敗北だ。生が絶対正義で勝利なんだ』

 

みたいな前提がありました。

 

 

もしそうであれば、人間は絶対悪のまえに100%敗北する運命になるということは小学生でもわかる理屈なのですが、ありえない勝利の可能性を信じているのかなんなのか、ほんの数日、数週間命を引き延ばすために、地獄の責め苦のような苦痛を患者にあたえながら、結局衰弱死させてしまうみたいなことが普通でした。

 

ただ、さすがに最近では医療界の考え方も変わってきて、死ぬよりつらい苦痛を与えてほんのわずか寿命を延ばすよりも、最期は痛みもなく楽に逝かせてあげるほうがいいだろうということで、末期の患者にはホスピスでターミナルケアという流れにもなってはきています。

 

ですから日々人間の死と向き合っている人たちの意識は、徐々に現実をむき始めていたりするのですが、そうでない人たちは、大半がまだまだ死が無縁であるとの妄想のなかで生きていて、これが自ら生き地獄をひきよせてしまいます。

 

医師からホスピスでの緩和ケアをすすめられているのに、患者自ら、あるいはその家族が『あきらめたくない』といって、治るはずのない病気たいして地獄のような苦痛をともなう治療を医師に強要して、激痛と苦しみのなかでほんの少しだけ命をながらえさせて死んでいくというケースも多いのです。

 

だいたいあきらめるもなにも、人間100%死ぬんですけどね。

 

鬼滅の刃の鬼みたいに、永遠に生きられる身体が手にはいるとでも思っているのでしょうか。

 

いやこれは、『がんばることが偉い』みたいな、なんの根拠もない常識が刷り込まれてしまっている影響もおおきいでしょう。

 

 

苦痛に耐えて、ギリギリまで命を長らえるべくがんばったから神様がほめてくれるとか、天国にいけるみたいな思いこみですよね。

 

でも残念ながら、真理の観点から言えば、人は死後は死んだときの意識のままの世界に行くので、苦しみながら死んだ人は苦しみに満ちた世界(地獄)に、緩和ケアで安らかに逝った人は安らかな世界(天界や極楽)にいくことになるのです。


現実面でも、真理の面でも地獄に落ちてしまうわけですから、まさに踏んだり蹴ったりですよね。

 

 

このように『自分は死とは無縁だ』とか、『死は絶対悪だ』みたいな間違った思いこみは、末期の病気の際だけでなく、人生全般をとおしても判断を誤らせてしまいます。

 

それについては、また今度お話しします。

 

 

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