常識が地獄の門となることもある
前回のブログでは、自分のアタマで考えることなく、自分の信じる常識をもとに判断していると自ら不幸な人生をたぐりよせてしまうこともある、というお話をしました。
今回も、多くの人が常識だと信じているけれど、実際は不幸をまねく要因となってしまうことについてお話ししようと思います。
まず質問です。
『あなたは、プライドをもっていますか?』
自分の人格でも、容姿でも、学歴でも、ファッションセンスでも、スポーツや芸術での受賞でも、あるいは、なんの根拠のないプライドでもかまいません。
とにかく、ご自身がプライドというものをもっているかどうかを確認してみてください。
一般的には、プライドをもつことは良いことだ、必要なことだ、と思われていますね。
親や教師、上司など、上の立場の人間が下の立場の人間に対して
『プライドをもて』といったりすることはよくありますね。
また、なにかで成功した人やスポーツ選手、アーティストなどが、
『自分の仕事にプライドをもっています』
みたいなことを言っているのもよく聞きますね。
そのため、
『自分はなにも人に誇れるものはない、バカでダメな人間なんだ』
と、悲しんだり、すねたりしている人も多くいます。
でも、そんな人でも、人にからかわれたり、バカにされたりすると激高したりするんですよね。
『イヤイヤ、思いっきりプライドもってるじゃないの?』
と思ってしまいますけど。
というわけで、実際はほとんどの人間が自分に対してなんらかのプライドをもっているんですね。
そして、そんなプライドを持っていることが悪いことだとか、不幸を招く一因になっているとか、天界や極楽入りを遠ざけているとは、夢にも思っていないようです。
これが、アタマでじっくり考えることなく、世間一般の常識を盲信して自分の意見としてしまっていることの危険なところです。
ここで一度、常識にとらわれず、アタマでよーく考えてみてください。
プライドというのは、カンタンに言えば『自分は人より偉いんだぞ』という自覚ですよね。
このような心の状態は【傲慢】以外の何ものでもありません。
【プライド】という言葉で表現すると、なんだかすばらしいもののように思えるから不思議ですが、そんなイメージにまどわされてはいけません。
傲慢は、どう表現しようが傲慢であり、心を汚す想念でしかないのです。
いくら耳障りの良い言葉に置き換えても、傲慢というのは天の国からかけはなれた状態であることには変わりません。
傲慢は六道で言えば、修羅道という下位の世界に属する思いになります。
だから、本当はプライドなんかない人間、人に誇れるようなものをなにももっていない人間のほうが、なんらかの才能をもっていて傲慢になりやすい人間よりも、はるかに極楽往生しやすいのです。
ちなみに、キリスト教においても【傲慢】は、7つの大罪のうちのひとつでもありますよね。
『でも、人間界の実生活においてはプライドをもって生きている人のほうが、幸せになりやすいんじゃないの』
と思われるかもしれません。
しかし、プライドをもっているから人生がラクになるとか、幸せになれる、といったことは、まずありません。
プライドが役立つのは、せいぜい人を見下して優越感に浸るという、程度の低い喜びをえるくらいでしょう。
それに対して、なんのプライドももたない人はどうかというと、人生が自由に、ラクに、思いどおりになるのです。
『こんなことしたら人にバカにされるからやめとこう』とか、
『こんなこと人に頼むのはプライドが許さない』とか、
『あんなこと言われた。絶対に許さない』
といったように、自分で自分の行動を縛ってしまったり、不要な怒りや悲しみを感じたり、争いごとを起こしてしまったりと、プライドなんて人生の足かせにしかならないのです。
最近わたしは介護の勉強をしているので、そんな例もひとつ挙げてみましょう。
高齢になって身体が弱り、満足に歩行もできない状態になっている人が、二人いるとしますね。
一方は、他人に下の世話をさせたり、入浴の介助をさせるなんてプライドが許さないという人です。
プライドが高いぶんだけ根性はあるので、弱った足を引きずりながらトイレにいき自分で用を足そうとするかもしれません。
でも、悲しいかな、プライドや根性だけで身体が自由に動くはずもないので、時々間に合わず、とちゅうで漏らしてしまったりします。
(プライドが高いぶんだけショックも大きいでしょうね)
それならひんぱんにトイレにいかなくてもすむようにと、紙おむつをはいたりするかもしれませんが、自分でおむつを変えることもままならないので、尿や便が皮膚についてかぶれてひどく痛んだりして、不快と苦痛の日々をおくることになるでしょう。
しかも、自分でふろに入るのも大変なので、身体はどんどん不潔になっていくうえ、かぶれもひどくなり、心の汚れをあらわすような悪臭まで放つようになってしまうでしょう。
それに対してもう一方の人は、よけいなプライドなどもっていません。
なので、さっさと介護保険を利用して、プロの介護職に下の世話から入浴、着替え、食事の介助まで頼んでしまいます。
自分の陰部までアカの他人にみられてしまいますがプライドがなければ、そんなことはつゆほども気になりません。
心はいつもスッキリと晴れわたっていて、身体のほうも不自由ながらも、日々清潔で快適に過ごせるでしょう。
どうですか。
プライドなんて役に立つどころが、苦痛の種にすらなってしまうことがわかりますね。
イエスや仏陀をはじめ、本当に真理を悟った(神仏となった)偉大な宗教者は、プライドなどかけらももっていません。
むしろ、だれよりも謙虚で、自分を低くした人生をおくっています。
イエスは、
『右の頬を打たれたら、左の頬も差し出しなさい』
とまで言っていますね。
プライドの塊のような人間には、想像もできないことでしょう。
また、こんな話もあります。
幕末の三大新宗教、黒住教の開祖である黒住宗忠は、生き神として多くの信者にあがめられるようになりましたが、ある日お付きの人間と町を歩いていて、観相見に『まれにみる阿呆の相をしている』と言われました。
まわりの人間が、なんと無礼なことを言うんだ、とオロオロしている中、宗忠は
『わたしはずっと阿呆になる修行を続けてきました。ようやく修行の成果が表れてきたようですな』
とおおいに喜んだということです。
このように、真理をさとって心がいつも極楽浄土にいる人は、プライドのひとかけらすらもっていないものなのです。
わたしが見るところ、プライドの高い人ほど、人生に不平不満をもっているように思われます。
六道で言うと、餓鬼道や畜生道にいる人たちですね。
(なにかで結果を出していることにプライドをもっている人たちは修羅道ですが)
そんな六道の下位世界から抜けだし、不平不満だらけの満たされない人生を劇的に好転させるヒントは、プライドを捨てるということにあります。
いま、不幸だと感じていたり、不平不満をかかえていたりする人は、まず自分がよけいなプライドをもっていないか確認してみましょう。
そして、もし自分の心の中にくだらないプライドがみつかったら、思いきってすててみましょう。
その瞬間に、あなたの人生はラクで自由で快適なものへと激変することでしょう。