本当にめでたいこととは
タイトルにある
【祖死 父死 子死 孫死】
というのは、江戸時代の禅僧、仙厓禅師が年始のお参りにきた檀家に『めでたい言葉を書いてください』と頼まれて書いた言葉です。
コンプライアンスがやかましいほど叫ばれるようになった近年では、『不謹慎な』と目をむいて怒りだす人が続出かもしれませんね。
YouTubeだったら
【祖〇 父〇 子〇 孫〇】
みたいに、わけのわからないタイトルになっているところですね。
もちろんこの檀家さんもわけがわからずに、
『なんでこれがめでたいんだ』
と怒ったそうですが、仙厓禅師はすずしい顔で
『生まれた者から順番に死んでいく。これ以上にめでたいことがあるものか』
と諭したそうです。
そして、この檀家さんもその意味を理解して、その書をありがたく持ちかえったということです。
現代では、ほとんどの人が自分は不老不死だという妄想のなかに生きていて、その妄想から覚まそうとするヤツは許さないとばかり、『死』を連想させる言葉の言葉狩りに必〇ですから、そんな仙厓禅師の教えにすなおにうなずける人もすくないかもしれません。
わたし自身、一昨年に
【 運も金も才能ももたない人間が無理ゲー社会を攻略するためのヨーガの秘法 ー 自殺のすすめ】
という電子書籍をamazonで出版したのですが、ひと月ほどで出版停止になってしまいました。
内容は、死を考えるほど人生に絶望している人でも、本書を読むだけで世界観が一変して、だれよりも幸せに、心豊かに、力強く生きていけるようになる方法を解説したものであって、手前味噌で言わせてもらうなら、自殺防止の電話相談、ネット相談、カウンセリングなど、どんなものよりも確実に効果のあるはずのものでした。
にもかかわらず、おそらくタイトルだけで判断されたのでしょう、出版停止です。
もうこの社会は、死という現実から目をそむけ、目先の快楽追求ときれいごとだけで飾られた世界をつくることに頭がいっぱいで、ものごとの本質を見極めようとか、生というものの現実を直視しようというところまで頭がまわらない人ばかりになってしまっているように思われます。
ただ、残念ながら目をそむけたからといって現実から逃れられるはずもなく、すべての人にかならず死はやってくるんですね。
そして、それは自分よりさきに、大切な愛する家族にやってくることもあります。
そんな現実に直面してはじめて人は妄想から覚めるわけですが、そのころには不老不死という妄想が膨れあがってしまっているので、それが裏切られたショックはとてつもなくひどいものになってしまうこともあります。
というわけで、VRゴーグルをつけて妄想の世界に遊ぶのはいいのですが、そんな妄想の世界を楽しむためには、ぎゃくに絶対に逃れられない現実というものがあることをしっかりと認識しておく必要があるかと思います。
そこで今回は新年特別編の第2弾として、そんな妄想世界を最大限に楽しむために役立つ現実の話をお届けしましょう。
人生は損か得かで決めればいいのに・・・
テレビのCMで、【メメントモリ】というのがありますね。
オンラインゲームの名前なので、【どうぶつの森】みたいなものなのかな、と思っている人も、ひょっとしたらいるかもしれません。
でも、これはもともと『死を思え』、『死を意識して生きろ』といったような意味のラテン語なんですね。
大昔の言葉ですから、人間というのはいつの時代でも自分は不老不死だという妄想にとらわれていた、ということなのでしょうね。
それではなぜ、それほどまでに人間は死をおそれ、忌み嫌うのでしょうか。
一番おおきな理由は、死んだあとにどうなるのか、どこに行くのか、というのがわからないからでしょう。
たしかに、『あの世にいって戻ってきました』という人はいないので、どうなるかわからない恐怖にうち震えながら暮らすよりも、自分は死なないし、あの世なんかないんだ、と信じて暮らしたほうがマシだという考えはわからなくもありません。
でも、はたしてそれが不安や恐怖と無縁の幸せな人生を手にいれる手段として最善の方法なのでしょうか。
死後の世界があるというのも、ないというのも、どちらも証明はできないわけですから、どちらがただしいということは言えないかもしれません。
ただ、どちらの説がただしいのかがわからないのであれば、どちらを信じたほうが幸せになれるのか、不幸や悩み、苦しみがすくない人生をおくれるのか、で決めればいいのではないでしょうか。
ふつうならそう考えますよね。
ところが、欲望追求最優先で生きている人たち、得することが大好きな人たちの大半が、わざわざ損なほうを選んで信じこんでいるのですから、人間とは不思議な生き物だなぁと、わたしはつくづく感じています。
もちろん、その損なほうというのは、死後の世界がないというほうですが、これはたんなるわたしの主観ではなく、両者を比較すれば一目瞭然にわかることなんですね。
というわけで、死後の世界があると信じて生きたほうが、どれほど充実した幸せな人生をおくれるのがみていきましょう。
死も不治の病も怖くなくなる
死後の世界がないと信じることでおこるデメリットは、ざっとみただけでもつぎのようなものがあります。
・心の病気にかかりやすい
・自殺しやすい
・病気をおそれ、警戒するあまり、逆に不健康になったり、寿命を縮めてしまう
・大切な人の死で自分も死ぬほどの強烈なショックをうけてしまう
逆に死後の世界があると信じている人は、このような問題から解放されるわけですが、どうしてそうなるのか説明していきましょう。
まず、死後の世界がないと信じている人は、死は絶対的な不幸であって、許されない悪であると考えているため、生にたいする執着がものすごくつよくなりがちです。
それに対して、死後の世界があると信じている人は、この世というのは手かせ足かせをつけられた不自由な牢獄だということを知っているので、自分の肉体もふくめてこの世のものにたいして執着がわきません。
このように両者の決定的なちがいは、【生に対する執着、肉体や物質に対する執着】にあります。
このちがいがわかれば、さきに挙げた人生上の問題が、なぜ死後の世界がないと信じている人特有のものになるのかも理解しやすいと思います。
順番にみていきましょう。
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・心の病気にかかりやすい
心の病気というのは脳の機能異常(病気)以外では、100%執着心が原因でおこっています。
掛け値なし、例外なしの100%です。
ですから、この世のものに執着のない人が心の病気になることは、ぜったいにないのです。
・自殺しやすい
『逆じゃないの?』
と思われた方も多いかもしれませんね。
でも、そうではありません。
死後の世界があると信じている人は、生死というのは肉体という服を着ているか脱いでいるかのちがいだけだと知っているので、執着していないからといって、必要もないのにわざわざ自分から服を脱ぐことはありません。
それに対して死後の世界がないと信じている人は、この世でつらいことや苦しいことがあったら、そこから逃げられると思っているので自殺を考えるのです。
(もちろん、真理ではないまちがった死後の世界を信じている人は自殺することはありますが、ここではあくまでも、わたしの説く真理にそった死後の世界を信じる人、という前提でお話ししています)
・病気をおそれ、警戒するあまり、逆に不健康になったり、寿命を縮めてしまう
薬というのは基本的に毒ですし、サプリメントも健康になるどころか、逆に健康を害するものがたくさんあります。
また健康診断とか人間ドックなども、レントゲンやMRIをとったりして、わざわざ被曝する自殺行為とすら言えます。
にもかかわらず、自分の肉体や健康に執着している人は、ちょっとカゼをひいたぐらいで薬を飲んだり、毎年かかさず健康診断をうけたりして、逆に病気や死亡のリスクをたかめがちです。
それにたいして自分の肉体や健康に執着のない人は、基本的に薬やサプリメントなどを飲んだりしないので、そのぶん健康でいられるのです。
ただ、この程度のちがいはわざわざ特筆するようなものではありません。
それよりも人生に決定的に影響をあたえるのが、末期がんのように不治の病になったときです。
死後の世界を信じていない人、死は敗北で絶対的な悪だと考えている人は、医師から緩和ケアでおだやかに家族と余生を過ごすことをすすめられても、なかなか納得できません。
『いや、わたしは最後までガンと闘います』みたいな勢いで、ムダな手術や放射線、抗がん剤などの治療を希望することが多々あるのです。
もちろん、そんな悪あがきをしても治るのであればそれでいいのですが、専門家である医師がもう無理だと言っているものが、素人のごり押し治療などで治るはずがありません。
しかし、そんな医師の勧めも無視して強引に治療を希望して、死ぬほどつらく苦しい抗がん剤で激痛にさいなまれながら余命よりもはやく死んだり、必要もない手術を強行させてムダに体力や気力を失ってしまって、ほぼ寝たきり状態になり、家族ともまともに話もできないままに死んでいくというケースが多いのです。
また、良識ある医師からムダな治療を断られて、あやしげな自由診療のクリニックやサプリメント、気功、宗教などに大金をつぎこんで財産のほとんどを使い果たしたり、みたいな人もたくさんいます。
このように生に執着する人ほど、逆に苦痛や死を近づけてしまうという、矛盾した結果になってしまいがちなのです。
またこれは自分だけでなく、家族がガンになってしまった場合も同様です。
緩和ケアを受けさせながら家族の時間を大切に過ごせばいいものを、治る見こみもないのに拷問のような治療を受けさせて、ろくに会話をすることすらないままに予定よりもはるかにはやく最期のときをむかえさせてしまったりするのです。
それに対して、死後の世界があると信じている人はどうなるでしょうか。
そもそも死ぬということは肉体という服を脱ぐだけという程度にしか考えていないので、わざわざ死ぬほどつらいだけで治る見こみもない治療など受けようとはしません。
それどころか、人生の卒業式として、死を喜びとして受けいれることすらあるでしょう。
とくに家族全員が死後の世界についておなじ意識をもっている場合は、
『さきに行って、むこうで待ってるよ』
『うん。わかった。それじゃ、あとから行くからね』
みたいな会話を笑いながらかわす余裕すらもてるのです。
人生の最後の最後を、苦痛と恐怖にさいなまれながら地獄のような日々を過ごすのと、おだやかに家族団らんのなかで過ごすのと、どちらが幸せでしょうか。
・大切な人の死で自分も死ぬほどの強烈なショックをうけてしまう
これはさきの病気の話やタイトルの仙厓禅師の言葉にも関係してきますが、自分の子供など想定と順番がちがう人の死に直面したときです。
死後の世界があると信じている人は、それが永遠の別れではなく、たんに服を脱いだだけだということを知っているので、悲しみもそれほど強くは感じません。
とくに心の底から死後の世界があると信じている人は霊的知覚も磨かれていることがおおいので、死んだ人とコミュニケーションをとることができることもあります。
病床で苦しんでいた人が苦痛から解放されてすがすがしい笑顔を浮かべているのを見て、『ラクになれてよかったね』と笑顔で声をかけてあげることすらできるでしょう。
それに対して死後の世界はないと信じている人は、死んだらそれで終わりだと思っているので、大切な人であればあるほどショックはおおきくなります。
人によっては、それがきっかけで廃人同様になって自分の人生もすててしまうようなこともあります。
死んだ人が残された人を心配してすぐそばにいるのに、それにすら気づかずいつまでも嘆き悲しんで、死者の成仏をさまたげているというケースもたくさんあります。
こうして自分だけでなく、人まで不幸にひきずりこんでしまうのですね。
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このように死後の世界があると信じている人は、ないと信じている人よりも、心身ともに健康で苦しみ悲しみの少ない人生をおくることができるのです。
さらに、わたしが冒頭でふれた著書、
【 運も金も才能ももたない人間が無理ゲー社会を攻略するためのヨーガの秘法 ー 自殺のすすめ】
で紹介しているバクティヨーガの思想を知り、実践すれば、もう人生に怖いものなしになるでしょう。
この電子書籍の内容やバクティヨーガについても、おいおいお話ししていきますので、とりあえず今回は死後の世界があると信じているほうが、そうでない人よりはるかに得な人生がおくれるということだけ理解しておいてください。
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