いよいよキリスト教解説の最終回

となりました。

 

全話とおして読んでいただいた方

は、もう

 

『どうすれば死んだあとに天国に

いけるのか』

 

という、われわれ人間にとって最重

要問題の答えを知って、安心されて

いることと思います。

 

 

また人によっては、イエスの教えを

ただしく実践できるようになって、

すべての悩み、苦しみから解放され

て、人生が幸福と喜びに満ちあふれ

た豊かなものに激変されたかもしれ

ませんね。

 

そんなイエスの福音を解説したシリ

ーズのトリを飾る今回は、ズバリ

 

【神の正体】

 

について、くわしくお話ししていき

たいと思います。

 


キリストは『愛の宗教』と言わ

れることがあります。
 

それはイエスが一番大事な掟と

して、

 

『神を愛せよ』

『隣人を愛せよ』

 

ということをあげられたことに

よるところがおおきいでしょう。

 

そしてまた、キリスト教では

 

『神は愛なり』

 

という言葉もよくつかわれます。


これは霊的知覚に優れたキリスト

教信仰者が神の臨在を感じとり、

その感覚が愛そのものだった、

というところからこのように表

現したのでしょう。


それはまったくの事実であり、

キリスト教にかぎらずどんな

宗教を信仰していても、いや

無宗教の人であっても、神仏

の存在を感じとったときには、

心身が一気に愛で満たされる

という強烈な体験をするもの

です。


そしてこれがまさに天国とか、

極楽と言われる世界(境地)

になるのですが、逆に考えれば

愛で全心身を満たせば神と出会

えるし、神の国にもはいれる

ということになるでしょう。


だから、神の国にはいることを

第一義としているキリスト教では

とくに愛というものを最大限に

尊重しているのです。

 

 

ただ、残念ながら相当熱心なキリ

スト教信仰者でも、そのような

境地にたどりついている人はごく

まれです。

なぜならば一口に『愛』といって

も、愛はかたちあるものではない

ので、その意味あいや本質をただ

しく理解できている人がほとんど

いないからです。


でも、もう大丈夫です。

 

このブログにであったあなたは、

キリスト教の、いや、イエスの

教えの本質をすべて理解でき、

本物の『愛』というものを知り、

神の正体でもある『愛』そのもの

になることもできるでしょう。

(今回は記事が長く1ページに

保存できなかったため、2部構

成になっていますが、最後まで

お読みいただければ幸いです)

 

 

 





Contents

  • 愛することはもっとも大切な掟である
  • 愛するとはどういうことなのか?
  • 愛とはなにか
  • 愛することの本当の意味とは
  • 意識とは人間の本質そのものである
  • 意識はひとつだけじゃない
  • 『隣人を愛せよ』のただしい意味は
  • 神を愛するとはどういうことか
  • 【神は愛なり】は本当なのか

 

 

 

 愛することはもっとも大切な掟である 

 

イエスは一番大事な掟はなにかと

律法学者に問われて、つぎのよう

に答えています。

 【彼らの議論を聞いていた一人

の律法学者が進み出、イエスが

立派にお答えになったのを見て、

尋ねた。「あらゆる掟のうちで、

どれが第一でしょうか。」 イエス

はお答えになった。「第一の掟は、

これである。

『イスラエルよ、聞け、わたしたち

の神である主は、唯一の主である

心を尽くし、精神を尽くし、思いを

尽くし、力を尽くして、あなたの神

である主を愛しなさい。』

第二の掟は、これである。

『隣人を自分のように愛しなさい』

この二つにまさる掟はほかにない」】

 マルコ 12:28-31


つまり、どんな掟よりも愛すること

が重要であると説かれています。

ルカの福音書ではこの律法学者は、

さらにこう尋ねています。

【 しかし、彼は自分を正当化しよう

として、「では、わたしの隣人とは

だれですか」と言った。イエスは

お答えになった。

「ある人がエルサレムからエリコ

へ下って行く途中、追いはぎに襲

われた。追いはぎはその人の服を

はぎ取り、殴りつけ、半殺しにし

たまま立ち去った。

 ある祭司がたまたまその道を下っ

て来たが、その人を見ると、道の

向こう側を通って行った。 同じ

ように、レビ人もその場所にやっ

て来たが、その人を見ると、道の

向こう側を通って行った。

 ところが、旅をしていたあるサマ

リア人は、そばに来ると、その人

を見て憐れに思い、近寄って傷に

油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、

自分のろばに乗せ、宿屋に連れて

行って介抱した。 

そして翌日になると、デナリオ

ン銀貨二枚を取り出し、宿屋の

主人に渡して言った。

『この人を介抱してください。

費用がもっとかかったら、帰り

がけに払います。』

さて、あなたはこの三人の中で、

だれが追いはぎに襲われた人の

隣人になったと思うか。」

律法の専門家は言った。

「その人を助けた人です。」

そこで、イエスは言われた。

「行って、あなたも同じように

しなさい。」 】

 ルカ 10:29-37


この隣人とはだれかという問い

に対する答えをめぐって神学的

にはさまざまな解釈があるよう

ですが、ここではとくに問題に

しません。

なぜならば、聖書をしっかり読

めば、答えはちゃんと書いて

あるからです。

イエスは、べつの場所でこうも

いっています。

【 「しかし、わたしの言葉を

聞いているあなたがたに言っ

ておく。敵を愛し、あなたがた

を憎む者に親切にしなさい。

 悪口を言う者に祝福を祈り、

あなたがたを侮辱する者のため

に祈りなさい。 あなたの頬を

打つ者には、もう一方の頬をも

向けなさい。上着を奪い取る者

には、下着をも拒んではならな

い。 求める者には、だれにでも

与えなさい。あなたの持ち物を

奪う者から取り返そうとしては

ならない。 人にしてもらいたい

と思うことを、人にもしなさい。

自分を愛してくれる人を愛した

ところで、あなたがたにどんな

恵みがあろうか。罪人でも、

愛してくれる人を愛している。 

 また、自分によくしてくれる

人に善いことをしたところで、

どんな恵みがあろうか。罪人

でも同じことをしている。 

返してもらうことを当てにして

貸したところで、どんな恵みが

あろうか。罪人さえ、同じもの

を返してもらおうとして、罪人

に貸すのである。 しかし、あな

たがたは敵を愛しなさい。

人に善いことをし、何も当てに

しないで貸しなさい。そうすれ

ば、たくさんの報いがあり、

いと高き方の子となる。

いと高き方は、恩を知らない者

にも悪人にも、情け深いからで

ある。 あなたがたの父が憐れみ

深いように、あなたがたも憐れ

み深い者となりなさい。」 】

 ルカ 6:27-36 


つまり、イエスは隣人として

特定の人間を愛せよといって

いるわけではなく、敵であろう

が、異教徒であろうが、困って

いる人であろうが、悪人であろ

うが、とにかく文字どおり

『隣にいる人はすべて愛しな

さい』

といっているのです。

イエスの愛は、人間的な選り

好みのある差別、区別の愛で

はなくて、太陽の日差しの

ようにだれにでも平等にふり

そそぐ愛なのです。

これは、小難しい理屈で聖書

を解釈し、教義を権威づけよう

とする神学者の方々には理解

しがたいかもしれませんが、

素直な心で聖書の文字をその

ままを読んでいる一般信者の方

たちなら、よく理解されている

のではないでしょうか。


ですから、隣人がだれかとか、

だれを愛するべきなのかと

いったようなことはあえて

ここでとりあげる必要もない

のです。

ただ、それよりももっと重要

な問題が、このイエスの発言

には含まれています。


それは

『愛するとは一体どういう

ことなのか』

ということです。

 

これがわからなければ、そも

そも、だれも愛することが

できませんからね。

 

 

愛するとはどういうことなのか? 

 

あなたは『愛する』という

言葉の意味をただしく知っ

ていますか?

『そんなの当然でしょ。

逆に、そんなこと知らない

人がいるの?』

と疑問に思われる方もおおい

かもしれません。


それではそのような方にお尋

ねしますが、愛するというの

は、具体的になにをどうする

ことなのか、あなたは答えら

れますか。

もしこれが正解できるのであ

れば、あなたは神を愛し、

隣人を愛することもラクラク

とできているはずなので、

不幸や苦しみとは無縁の歓喜

と幸せと安らぎとに満ちた毎日

をおくっているはずです。


逆に、そんな天国のような日々

とは無縁の日々をおくっている

という人は、残念ながら、愛す

るということの意味をかん違い

しているか、意味を知っていな

がら愛することを拒否している、

ということになるでしょう。


すこし皮肉っぽい言い方になって

しまいましたが、じつはほとんど

の人が『愛」というものの本質や

『愛する』という意味をただしく

理解していないのです。

だから、これだけわかりやすく、

具体的にイエスが説明してくだ

さっているにもかかわらず、

イエスの教えにしたがうことも、

神の国にはいることもできない

人ばかりなのです。

(神の国にはいれるかどうかは、

不幸や苦しみと無縁の喜びと幸せ

に満ちた毎日をおくっているか

どうかでカンタンに判断できます)


それでは、この『愛する』という

言葉は、どのように誤解されてい

るのでしょうか。


たとえば、
『私は隣人を愛しています』
という人に、具体的にはどのよう

なことをしていますかと問えば、
 

『困っている人がいれば助けて

あげる』
 

『だれにでもやさしく丁寧に、

親しみをこめて接している』

『自分だったらこうして欲しい

なあと思うことを人にしてあげ

ている』

といったような答えがかえって

くるのではないでしょうか。

 

つぎに

『どのように神を愛していますか』

と問えば、

『おそれと敬いの心をもってあが

めている』

『自分の親に話しかけるように、

親しみをもって朝晩、語りかけて

いる』

『神様をガッカリさせないように

つねに御心にかなうよう気をつけ

て、清くただしい生活をおくって

いる』

といったような答えがかえって

くるかもしれません。


しかしこれでは、最初の隣人を

愛するという場合の行動と神を

愛するという場合の行動とが、

まったくちがっていることが

わかりますね。

どちらも『愛する』というおなじ

行為をしているにもかかわらず、

その具体的な行動がぜんぜん

ちがっているということは、

どちらか、あるいはその両方が

間違っているということになって

しまいますね。


これでは、とうてい真理とは言え

ません。


真理というのは、数学とおなじ

ように論理的に矛盾のないもの

なのです。 

ですから『愛する』という行為も、

相手が神であろうが、人であろう

が、動物であろうが、ものであろ

うが、かたちのない音楽やスポー

ツ、趣味であろうが、おなじかた

ちにならなければならないのです。

どうですか。難しいですね。 

ここまできびしい条件をつきつけ

られると、これまで信じていた

『愛する』という意味の解釈に

自信がなくなってこられた方が

おおいのではないでしょうか。

 

『愛する』とはどういうことなの

かがわからないのは、そもそも愛

というものの本質がわかっていな

いからなのです。

というわけで、まずは『愛する』

ということのただしい意味をお教

えするまえに、【愛】の意味から

説明していきましょう。

 

 

 

愛とはなにか 

 

さて、それでは愛とは一体なん

なのでしょうか。

まずは『愛』を辞書で引いて

みましょう。

すると一番最初に、次のように

載っています。

(1)対象をかけがえのないもの

と認め、それに引き付けられる

心の動き。また、その気持ちの

表れ。

(ア)相手をいつくしむ心。

相手のために良かれと願う心。

(イ)異性に対して抱く思慕の情。恋。

(ウ)何事にもまして、大切にしたい

と思う気持ち。

(三省堂 「大辞林 第二版」)

 どうやら少し愛の輪郭が見えてきま

した。

言語的には愛というのは、

《なによりも相手を大切にしたい

と思う気持ちであり、また、その

相手に引き付けられていること》

であると解釈して間違いなさそう

です。

とすると、

『神を愛する』

『隣人を愛する』

というのも、

《なによりも神と隣人とをかけ

がえのないものと認め、それに

引き付けられる心をもって、

大事にする》

ということでいいはずです。

さすがは言葉の専門書ですね。

なかなか鋭く本質をついています。

しかし、これを実際に行うとなる

と、やはり具体的にはなにをどう

していいのかわからないのでは

ないでしょうか。

だから、儀式や偶像をとりいれて

形だけ神を礼拝したり、とりあえ

ずボランティア活動をやったりと

的はずれなことをしながら、

『なかなか神は訪れないなぁ』

と心待ちの日々をすごしていたり、

神の存在に疑問をもったりして

しまう人が大半なのです。
 

 

このように、たんに神と隣人とを

愛せよと言われても、より具体的

な方法がわからなければ、そして、

そうしなければならない理由

(原理)がわかっていなければ、

それらしいカタチをまねするだけ

しかできないのです。

そこで、いよいよ神霊学(スピリ

チュアリズム)の出番です。

神霊学ならば、愛とはなにか、

ずばり答えることができます。

これまで何度か、『愛とは神の

本質である』といいましたが、

より具体的でわかりやすい言葉

でいえば、『同化』ということ

になります。

べつの言葉であらわせば『一体

化』、もっとカンタンにいえば

『ひっつく』ということです。

どうですか。

 

『なにをバカなことを言っている

んだ』

 

という声が聞こえてきそうですが、

これは本当です。

 

にわかには信じられないかもしれ

ませんね。

でもべつに、奇をてらってひねく

れた回答をしたわけでも、一休さん

のようにとんちでけむに巻こうと

しているわけでもありません。

あまりにも意外な答えだったので

あっけにとられてしまわれたかも

しれませんが、これは厳然とした

事実であり、実際にどのような場

合においての『愛』という言葉に

も共通する本質なのです。


愛情、恋愛、性愛、愛着、慈愛、

はたまた哲学でいうアガペ(博愛、

人類愛)もエロスも、みんなおな

じ『同化』です。

わかりやすく身近な例で説明して

いきましょう。

たとえば、男女がお互いに愛し

あうとどうなるでしょうか。 

文字どおり、いつもベタベタと

ひっつこうとするでしょう。

また溶け合って一体化すること

は不可能にしても、一ミリでも

近づこう、同化しようと身体を

よせあうでしょう。

さらに、仕事やなにかの都合で

はなれていなければならないとき

でも、頭の中は愛する異性のこと

でいっぱいになっているものです。

これは思いがひっついていたり、

同化していたりするということ

です。

そしてたとえば、その愛する人

が目の前でだれかに頭をパコーン

とたたかれたりすると、まるで

自分自身が頭を張られたように

腹が立つことでしょう。

また、愛する人が大ケガをした

り、大病を患ったりして苦しん

でいると、自分も痛いほどの

つらさ、苦しみを感じるでしょ

う。

これがまさに同化、一体化して

いるという証拠です。

このような愛情による同化は、

もちろん親子間や兄弟、姉妹間、

同性間、あるいはペットに対して

もおこります。


また車や持ち物、衣服、空間など

に対しても同化しようという気持

ちがおこることはあり、これは

『愛着』という言葉で表現され

ます。

自分の車が知らない人にさわられ

るのをみると、なんだか自分がさ

わられているようでイヤな気持ち

になるでしょうし、蹴ったりたた

いたりしたぐらいでは傷つくはず

のないタイヤであっても、人から

けっ飛ばされたりしようものなら、

自分が蹴られたかのように怒り心

頭に達する人もおおいでしょう。

あるいは、パーソナルスペースと

いう言葉を聞いたことがあるかも

しれませんが、ガラあきの電車の

座席にすわっていて、だれかが真

横にすわってくるととても不快な

気持ちになるでしょう。

これは空間に対して同化している

わけです。

つまり、自分が愛着をもっている

空間、それがすなわちパーソナル

スペースというわけです。

このように愛というのは人であれ、

動物であれ、モノであれ、かたち

のない空間であってさえも対象と

して、同化(一体化、ひっつく)

してしまうことなのです。

どうでしょうか。

おわかりでしょうか。

これまでの思いこみをひっくり

かえされたばかりで、まだ十分

納得できていない方もおられる

かもしれませんが、とりあえず

ここでは【愛=同化】という

定義を前提として、【愛する】

とはどのような行為、行動をする

ことなのか説明していきますね。

そのうちにだんだんとこの定義

がしっくりとしてくることと思い

ます。

 

愛することの本当の意味 

 

さて、愛=同化ということがわか

れば今度は『愛する』ということ

を実際の行動であらわすためには

どうすればいいのか、ということ

がつぎなる疑問になってくるで

しょう。

かなり熱心なキリスト教信仰者

でも、この『愛する』ということ

の具体的行動を間違えてとらえて

いる人が大半で、イエスの教えを

誤解したまま実践している人も

おおいので気をつけなければなり

ません。

それでは、この『愛する』という

ことを具体的な行動であらわすと

どのようなものになるのでしょ

うか。
 

これも、より具体的な行動、行為

をあらわす同義語におき換えると

すぐにわかります。

《愛する=同化する》の具体的な

行動、行為は『意識をおよぼす』

です。

先ほどの例でいうと、自分の車を

他人にさわられてハラが立つのは、

その現場を見て意識が車におよん

でいるからこそであって、自分の

見えないところでの行為であれば、

蹴っ飛ばされようが、ツバを吐き

かけられようが、その痕跡さえの

こっていなければ心は平穏無事な

はずです。

パーソナルスペースにしても、

前後不覚に居眠りしていれば、

隣にだれがすわろうとまったく

気にならないことでしょう。

このように同化とは、自分の意識

がおよんではじめてなりたつもの

なのです。

あたりまえだと思われるかもしれ

ませんが、このあたりまえをただ

しく理解できていないために、

『愛する』ということをただしく

実践できないのです。


それならば、なぜおおくの人が、

このあたりまえのことをきちんと

理解できていないのかというと、

肝心の【意識】というものの正体

を知らないからなのです。

つまり、
 

【意識】とはなんであるかを知ら

ないため、【意識をおよぼす】こと

ができず、そのため【愛する(同化

する)】こともできない、

という図式になっているのです。

 

 ただ逆に言えば、この【意識】

の正体さえわかれば、神も隣人も

ただしく愛することができて、

一気に神の国にはいることも可能

になるのでおおいに希望がもてま

すね。

そこで、つぎに天国にはいるため

の一番のカギともいえる【意識】

について解説していきましょう。
 

 

 

意識とは人間の本質そのものである 

 

哲学では『自分とはなにか』という

ことは難問としてとらえられている

ようですが、神霊学ではこの答えは

カンタンです。

 じつは、

『自分とは意識そのもの』

なのです。

肉体こそが自分だと主張する人は

たくさんいますが、それはあきらか

な間違いであることはごく単純な

論理で否定できます。

たとえば、服を着ているときは

服も自分自身になっていますし、

車に乗っているときは車も自分

の一部になっているでしょう。

また逆に、頭や指につながって

いるときは髪やツメはなにより

も大事な自分自身ですが、切っ

たりして身体からはなれてしまっ

た瞬間から、もはや自分とは

まったく別物の生ゴミになって

しまうのではないでしょうか。

これは切ってもまた伸びてくる

髪やツメだけではなく、手や足、

内臓など身体の各器官に関して

もおなじです。

事故や手術でそれらを失ってし

まった場合、それを自分だから

といって大事に肌身はなさず

もち歩いたり、ミイラ化させて

保存しておく人などいないで

しょう。

処分はお医者さんにまかせる

としても、切りとられた肉体

の一部は生ゴミとして捨てられ

ても異存はないはずです。

このように、自分自身である

と信じてうたがわなかった肉体

は、本当の自分ではなく、たん

なる肉のかたまりであり、自分

の本体からはなれてしまうと

とたんに生ゴミと化してしまう

しろものだったのです。

にもかかわらず、そんな生ゴミ

を自分だとかん違いしてなに

よりも大切にしてしまう理由は、

自分の意識がおよんでいるから

なのです。

 

これでもまだ、
『いや、そんなことはない。

肉体こそが自分なんだ』
と言いはる人には、さらに決定的

な話をしましょう。

あなたが皮膚ガンにかかって、

身体の一部が見た目にも気持ち

悪いぐらいに赤黒くぼっこりと

腫れてきたとします。

そんなとき、あなたはその腫瘍

を大事な自分自身であると受け

いれられるでしょうか。

大半の人はそうではないでしょう。

まぎれもなく自分の身体の一部

であるにもかかわらず、その腫瘍

には自分であるという意識がおよ

ぶことはなく、むしろ自分と敵対

する悪者であるかのように考えて、

やっつけてやろうとすらするので

はないでしょうか。

 

どうでしょうか。

【肉体=自分】

 という考えは矛盾だらけだという

ことがわかりますね。

そして、本当の自分とは物質では

ない『意識』であり、肉体であれ、

服であれ、自動車であれ、自分で

あるという意識がおよんだもの

だけが自分になると考えれば、

すべてつじつまがあってきますね。


神霊学(スピリチュアリズム)は

霊的知覚だけでこの世の真理を

つきつめていくものではなく、

一般の人以上に現実をしっかりと

見つめ、論理に矛盾がないことを

確認しながら真理を追究していく

学問であり宗教なのです。

ですから、どんな宗教よりも合理

的に真理を解き明かすことができ

るのです。


さてそれでは、そんな人間の本

質でもあるこの意識というのは、

一体なんなのでしょうか。

つぎに、【意識】とはなんなのか

についてお話ししましょう。


 

意識はひとつだけじゃない 

 

意識には、

脳によって生み出される

【精神】と【感情】

肉体がもつ【身体感覚】

そして霊的存在である【幽体】

この4つがあります。


ふつうの人間は、精神や感情と

いった意識が自分の肉体とその

周囲のわずかな事物や空間、

および、特定の愛する人や物に

およんでいるだけになります。

 

それに対して、スポーツや芸術

で超人的な才能を発揮する人は、

身体感覚の意識が極度に発達

していて、その対象と同化して

います。

また、霊能力者など霊的知覚に

すぐれている人は、幽体の意識

がつよいため自身の幽体レベル

に応じた霊的世界とコンタクト

をとることができるわけです。


そしてもちろん、死んだあとは

脳の働きによる【精神】と【感

情】、そして肉体の【身体感覚】

は消滅してしまうため、それら

の意識はなくなり、【幽体】だけ

になるので、これこそが人間の

真の本質であるといってもいい

でしょう。

これらの4つの意識は、人権

とか、尊厳とか、時間といっ

たような人間の頭が生みだし

た実体のない概念ではありま

せん。

目にみえなくても現実に存在

している空気や電波、素粒子

などとおなじく、この空間に

実在するものであって、ある

種のエネルギーであると考え

てもらってもいいと思います。


だれしも、他人の喜怒哀楽と

いった感情や殺気、悪意、

敵意、嫌悪といった強烈な

意識をはだで感じとった経験

があるのではないでしょうか。

これは、意識が実在するエネ

ルギーだからなのです。

ただし、さきにも述べたように

意識というのは肉体の働きに

よるものと、幽体の働きによ

るものとがあります。

スポーツ選手や芸術家などが

超人的な技を発揮するのは、

あくまでも肉体意識による

ものなので限界があります。

それに対して、ヨーガや密教

の行者、瞑想者などが宇宙と

一体化した状態になっている

ときやキリスト教信仰者が

神の精霊に満たされている

といったときは、幽体が無限

にひろがって全世界と同化し

ているという状態であり、

修行者のレベルによっては

神の国にはいっている、とい

うことになります。
 

 

さて、意識とはなにかがわかっ

たいま、

・自分の本質は意識そのもので

 あること

・愛するということは、自分の

 意識を対象におよぼすこと

・これがすなわち同化するという

 こと

という意味も、おわかりいただけ

たのではないでしょうか。


そこで、これからまた本題に

もどって『愛する』ということ

について説明していきたいと

思います。


 

(Part2へ続く)