日本のバブル景気

1985-87年 中曽根内閣の時にはじまり、竹下、宇野と続き、海部内閣の時に崩壊した。


株価と土地価格は高騰した。


1989年平成元年 消費税3%導入

がピークで、弾けたのは1990-1991年。


バブル景気は日本の実力ではなかった。


1985年5月国土庁首都改造計画

1985年9月プラザ合意で円高ドル安へ

1986年1月原油価格急落

1986年4月前川日銀総裁リポートで内需拡大、市場開放、金融自由化

1987年2月ルーブル合意でも円高ドル安

1987年10月米国ブラックマンデー


海外情勢と日本の政策がバブル景気を作った。

円高で内需拡大に焦点が向き、国土庁首都改造計画で東京に高層ビルが求められることにより土地価格が高騰した。金あまりで融資先に困った銀行も不動産投資へ動いた。


1990年3月総量規制


この法的強制力のない圡田正顕大蔵省銀行局長の通達で、銀行の不動産投資抑制の行政指導が行われた。当時の大蔵大臣は橋本龍太郎。


 当時のマスコミはこれを歓迎した。むしろもっと早くもっと強固にやるべきと書いた。

「景気に配慮、尻抜けも」(日経

「地価抑制の効果は疑問」(東京


 しかしこの通達の威力は大きかった。土地価格は暴落した。

 そして1991年12月にはこの行政指導は解除するのだが、マスコミは続行を望んでいた。

 解除の検討をはじめた頃のマスメディア

「地価バブルを完全につぶそう」(朝日

「居座り許せぬバブル地価」(毎日

「地価対策の手綱を緩めるな」(読売

「地価は落ち着いても楽観できない」(日経)

「なにゆえ慌てる金融緩和」(東京)

「地価抑制対策の緩和はまだ早い」(日刊工業


 しかしバブル崩壊後、失われた10年20年30年と続くとはほとんど予想していなかった。


1990年3月27日総量規制通達時

 銀行局長 土田正顕(1936.8.18-2004.1.30)53才

 大蔵大臣 橋本龍太郎(1937.7.29-2006.7.1)52才

 日銀総裁 三重野 康(1924.3.17-2012.4.15)66才

 首相 海部俊樹(1931.1.2-2022.1.9)59才


 地価高騰でサラリーマンは都内に家を持てないとし、評論家佐高信(1945.1-)は三重野を持ち上げ、平成の鬼平と呼んだ。マスコミは地上げ屋に脅される庶民をクローズアップして地価高騰を批判した。(ドラマやバラエティの主戦場だった)22時台のほぼ初めての報道番組であるテレビ朝日ニュースステーションは久米宏を視界として1985年10月7日から開始していた。

 1989年12月日銀総裁となった三重野は前任の澄田智(1916.9-2008.9)の超低金利政策を撤回し金利を上げた。

 今ではバブル崩壊させたとして三重野を批判する向きもあるが、一方で1992年に日銀特融を画策するも財界や大蔵省に反対され宮澤首相が腰砕けになったと三重野は批判した。宮澤喜一は政官民の主要人物の中で三重野が唯一の危機感を持っていたと話した。


 太平洋戦争も戦後は国民は軍部のせいにしたが、マスコミは戦争賛成だったのである。(軍の上層部は反対でも立場上公言できない)

 バブル崩壊もそうであった。バブル景気真っ只中の時代、マスコミは不安ばかりを煽っていた。そしてバブル崩壊につながる政策を応援していた。


 澄田は日銀総裁後半で持病がありそれが失策の原因だという説もあるが、澄田三重野両日銀総裁、土田銀行局長、みんなおそらくは優秀で真剣に考えていたのだと思う。総量規制は世論も推していた。しかし、皆の思惑とは違う方向へ向かった。


 経済は分からぬものである。その時代のもっとも優秀とされる人物が世論の後押しを受けて政策を実行しても、どこへ転ぶか分からない。

 ランダムネスの世界である。


 例えば少子化対策などもそうである。マスコミはいろいろ言うが、実際にはやってみなけりゃ分からない。案外、ある時急に風向き変わる事はある。というかいつか必ず風向きは変わる。問題は時期の問題。もし来なかったら人類と文明が滅びる。



(過去記事1)