ブラジル移民勝ち負け十年論争の戦勝派新聞がメディアの特徴を表している。
これはブラジルだけの話ではない。
戦前戦中と、新聞は戦意高揚を煽った。
その方が売れたからである。
 
現代における戦勝派雑誌としては
雑誌クロワッサン
が挙げられるだろう。
1970年代、日本を含めた世界は人口爆発に恐怖を感じていた。
1974年第一回日本人口会議で、子供は二人までという少子化推進策が提言され、マスコミや日教組や政府が少子化推進策を行った。中国の一人っ子政策(1979-2014)より早く始められたと言える。(ただ少子化策を憲法に入れた中国に比べれば、日本は政府よりマスコミ主導型であった。)
そして1980年代バブル景気がおき、少子化推進策にもなる1986年男女雇用機会均等法が施行された。
 1970年代中盤までは見合い結婚が恋愛結婚を数で上回っていたが、メディアが恋愛結婚を持ち上げる、恋愛結婚の比率が大きくなった。
 そこで男女が知り合うゲームのルールが変わると、暴れてくるものも出てくる。
 婚期を逃す未婚男女が増え出したのである。そして妊娠出産の年齢制限がある女性は婚期が比較的短い。
 そこで焦り出す未婚女性が増えた。
 
 そこに彼女らが信じ込みたい甘い言葉に捕まった。
 
 雑誌クロワッサンは、
自由で前衛的なシングルライフ
という新しいライフスタイルを提案したのだ。
 
 結婚からの逃げ道を提示された未婚女性たちはそれにすがった。
 
 しかし、バブルは崩壊し、雇用条件は低下した。少子化も行き過ぎ、少子化防止へと人口を増やす方に政策転換した。
政府の施策も子供手当に代表されるように、子育てをする女性たちを支援する方向に転換して行った。
 
 雑誌クロワッサンでは、新鋭の女性文化人が自身のライフスタイルを紹介する形をとっていた。
 
 だがメディアを通して提案される彼女たちの生き様は、彼女らの生活を1つのストーリーに沿って再構成し、それに従って現実から一部を切り取ったものに過ぎなかった。その事実に気が付いた段階では、同誌の愛読者たちの多くは結婚出産適齢期を過ぎており、同世代の男性が結婚を忌避しない年下の年齢層の女性と結婚するのを尻目に、彼女たちにはもはやなす術はなかった[10]

群ようこは自著のエッセイの中で、 このような女性の状況について、「展望台の2階に上がったら、始めはすごく眺めも良くて気持ちが良かったけど、 気が付いたら、誰もいなくなっていて、あわてて降りようとしたら、 階段もなくなっていた」と喩えている。

 そして、雑誌クロワッサンは編集方針を転換した

想定読者層を独身女性からヤングミセスへとシフトした。

 同世代の専業主婦から羨望されるおしゃれな生き方を提示し続けてくれるはずで、若い時お見合いを拒絶したのも、クロワッサンの信奉者たちがいるからであった。しかし、その幻想が崩れたとき、失望、孤独感、虚脱感に襲われることになった。

松原悦子

クロワッサン症候群その後

(1998.11)

の本の帯にはこうある。

高いものを買っても、おいしいものを食べても、なにをしても、気がはれない

 

 ブラジルの戦勝派とクロワッサン症候群の独身女性たちとは、通じるものを感じる。

 考えるべき対象を自分の頭で考えず、群れることで紛らわせていた結果、その責任は自分が被ることになった。