いつも気になってるんだけど、専門性と言う言葉の使い方に非常に気になる。

これは前からぼちぼち書いてるんだけど、また強調して書きたくなった。


特別支援教育をしていく上で、しばしば専門性が必要だ、といろんな人が言うんですよね。親というより役人や教員や職業人。

その人たちが言うところの専門性と私が思う専門性の定義が違いすぎて、モヤッとする。たんに定義の違いなら脳内で違うワードに置き換えれば、理系の私は通常ならやり過ごせるんだけど、この場合は置き換えてもモヤモヤがなくならない。


まずいつも言ってる私の定義の専門性は、経済学者カーネマンが著者ファスト&スローに準じて、次のようになる。

規則性のある現象を扱う分野において、

その規則性は、ど素人がすぐに把握できるほど単純ではないものの

既に誰かによって規則性が理解されていて、その知見は、その発見者以外の一定以上多くの人達に訓練の上に伝えることができる状態な時、

その規則性の知見を専門的知見

と呼び、

それを訓練の末に得たものを専門家と呼ぶ。

そして、その訓練に才能時間労力の量が多く要するほど専門性が高い

と言う。素人でも簡単にマスターできるなら、専門性が低い。


 例えば、自動車はある規則によって動くように作られている。ハンドルを左に切れば左折し、ブレーキを踏めば減速し、アクセルを踏めば加速する。あるボタンを押せばウィンカーが点滅し、別のボタンでワイパーが動く。

 今の自動車はオートマになり、マニュアルに比べれば楽にはなっているが、素人が5分で習得し公道に出る事は無理だ。教習所に何回か通って習う必要がある。経験浅い一年くらいは若葉マーク付けなきゃならないだろう。


 一方で、ヒット歌謡曲のシンガーソングライターは、その道の専門家とは言えない。なぜなら再現性がないからだ。ヒット曲に規則性はない。一度ヒット曲が出せても、次にまた新しいヒット曲を出せるとは限らない。


 分かるだろうか。


 その上で、特別支援教育における専門性とは何だろうか?


 特別支援教育に良し悪しの客観的な基準がない。良かったかどうかは本当は当事者が死ぬまで生涯を通して観察しないと結論は出ないし、その人生と教育に因果関係があったかどうか判定するのは難しい。


 特別支援教育の場合、解答者(当事者)も採点者(支援教師)もどちらも正解を知らない。まるで小学生が小学生に高校数学を教えているようなものだ。その答案は永久に最終的な正解に辿り着かないし辿り着いても辿り着いたことに気がつけない。


 だから、特別支援教育において、ど素人が支援教育専門家になるために、身につけるべき規則性の知見は何か?と問うた時、その内容は非常に薄い。

 無理強いをさせてはいけない、とか、叱責、揶揄いなどは良くないとか

 例えば自閉症だけに関して言えば、所詮文庫本一冊に書ける程度の量しかない。

 自閉症にもいろんなタイプがあるので自分の子に適用できる事だけに絞ればもっと少なくなる。

 ABA療育はもう少し分厚いマニュアルがあるので、文庫本一冊では無理だ。しかしABA療育は長期的エビデンスベイストではない。効果の根拠は短期的で長期的には効果無しという説が強い。

 教育機関や資格試験ではそんな薄い知識では格好が付かないのでエビデンスの無い蘊蓄を強いる。蘊蓄は専門性とは言えない。ガソリンの成分ブタンの化学式が正確に書ける事は、運転手としての専門性にはならない。


 専門性と言いながら、その専門的知見と言うべき内容が無いのだ。つまり、支援教育を職業にしている人が専門性という言葉を使う時、

この領域にど素人が入ってくるな、

という嫌味を感じてしまう。

 あるいは、自分たち特別支援教育の組織を価値あるものとして世間に認めさせたいがために、素人に知らない秘伝の手法を持っているという宣伝に使っているのか、と、うがってみたくなる。


 そんな事はない。ど素人でも簡単に入ってこれる領域なのだ。学ぶべき事柄の量は非常にすくない。時間がかかるとしても心理的抵抗や哲学の問題である。


 ちょっとうがったみかたをし過ぎだろうか。

 良く解釈すると、素人を排除すると言うより、

 昔ながらのドイツ精神医学に源流を持つ差別主義者がまだ特別支援教育に多く携わっていて、彼らに

古い思想を捨て、新しい考えを聞け

と呼びかけているのかもしれない。


 ここまで書いて、きっとそうだろうと腑に落ちた。

 ただ、そう言うなら、専門性と言わずに、

 古いやり方は捨てて新しいやり方を学ぼう

 古いやり方でダメだった事は長い年月をかけて分かってきている

という言い方のほうが、よいと思う。


 ほとんどの場合、

 専門性の必要性とは、

 古い偏見の排除

くらいの意味に過ぎないんだよね。


 役人はよく専門性とか言うので、役人の専門家丸投げ主義、免許主義にはカチンときていたので、その流れで書きました。カチンときた理由は米田倫康氏の一連の著書を読んでください。

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784907961138


私は特別支援教育だけでなく、学校教育にも専門性はあまり認めていない。学校教員の免許は廃止した方が良いという意見があり、同意する。免許あるなしで変わらないと言う調査がある。教員免許は新規参入障壁にしかなっていないらしい。

以下の本が参考になる。



今のうちの子らの担任教員は今のところ良いと思う。しかしそれは教員免許を持っているからではないと思う。

 私が習った教員は、小234,中1.2の担任教員はクズだった。9年中5年間クズだから、まともな教員は半分以下となる。全国平均でもそんな程度だろう。子供の頃は自分の教員はクズだと信じたくなかったから自分が悪いと思い込もうとしていた。健気だよ。大人になったら親も教員も冷静に判断できる。

 そう言えば、昨日日曜の医師の講演でも、子育ての評価は、親と子でズレがあると言ってた。本田秀夫先生も似た事言っていた。