明治5年、1872年、

富岡製糸場が建てられ女工を募集したとき、

工場という言葉も、女工(工女)という言葉も

日本では新しくできた言葉で、広く知られていなかった。当時外国人が飲むワインは女の生き血だとも噂され、お雇い外国人は恐れられていた。

 

尾高(日本側)工場長(渋沢栄一の従兄弟)は当時14才の自らの長女(尾高勇)を女工として差し出した。周囲からは同情された。14-15才で嫁に行くこともあったから、それで婚期を逃すこともあり得た。しかし後に尾高勇は19才で銀行家と結婚し、子宝にも恵まれたという。

 

工場長の娘が女工となったことを契機に女工が集まるようになったとか。

それでも当初は6割が貴族で、一日7時間45分労働、日曜休みで、医師も常駐してして医療は無料。当時としてはとてもよい労働環境だったそうな。

(労働時間は季節によって変わる。何故ならまだ電灯がなく、日の長さによって操業時間が変わるため)

 富岡製糸場は日本初めてのモデル工場であり、働いた人たちが日本全国に散らばり、製糸工場へ技術を拡大していった。

 そして明治時代の終わりには生糸は生産量でも輸出量でも世界一となった。

 

 明治40年代(1907-1916)は製糸業が最も過酷となり、十代の農家の娘が工女として一日15時間以上働くこととなり、衛生環境は充実していなかった。あゝ野麦峠の世界である。

 

 学校という組織は、こういった時代に作られたものであった。

 

富岡製糸場が開業した

1872年

と同年に学制発布され、全国に小学校が作られた。

1872年正月の満年齢は

大隈重信(1838.3-1922.1)33才

伊藤博文(1841.10-1909.10)30才

渋沢栄一(1940.3-1931.11)31才

 

富岡製糸場のお雇い外国人責任者も

 

Paul Brunat(1840.6-1908.5)31才

 

みんな若いね。

 

 その時代その時代、若い親が子に名前を付けるが如く、一生懸命だったんだよね。

 感謝はするけど、それを過大評価しても過小評価しても良く無い