一昨日水曜日、テレビタレントが自殺して亡くなったらしい。

誹謗中傷が一因との見方がある。

 

夫婦でその事を話した。そのタレントは家庭的な事でゴタゴタがあって非難されていたらしい。

 

 そこで思ったが、素人であれば、そこまで非難されていなかったろう。しかし離婚後も表立って芸能活動やら社会活動を続けてきたことが不幸を招いたと思う。

 

 テレビ番組に出ると言うことは、中世近世で言うところの貴族なり有力者なりのパーティーに招待されることの現代版である。天皇陛下の園遊会は今でもある。近世まで遡らなくても1922年を舞台に描いた小説華麗なるギャツビー(1925)のギャツビー亭で毎夜開かれる豪華パーティを思い出せば良い。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/グレート・ギャツビー

 

 

 

 

 たんに視聴者受けのよい面白いコンテンツを配信するというのがテレビではない。そこはその時々の時の人、評価されている人を集める場所であり、テレビに頻繁に出るということが、社会的に評価されると言うことにつながる。

 

 昔の岩波書店と帝国大学の関係か。もともと出版なんて仕事はゲスな仕事だった。江戸時代の井原西鶴の浮世草子とか黄表紙とか。岩波書店は、その辺のチンピラ作家ではなく、帝国大学の教員の本を出版する事で、岩波書店のブランドを構築した。一方で、岩波書店から著書を出す事で、その著者個人の学者としての格を高め、帝国大学の格を高めた。帝国大学も創立期はそれほど格は高くなかった。役人養成所は各官庁が持っており、秀才がこぞっていく士官学校は別ルート。学費も高かったから京大入試は定員割れしてた。大学の先生は何を研究する者か位置付けがはっきりしていなかった。(東京大学の文系の先生は官公庁の役人から委員会の仕事などで呼ばれて大学を留守にすることがステータスだった.京都大学は霞が関から遠いので,哲学や霊長類学など自由な校風となった.)

 

 話が少しそれた。大学と岩波書店が互いにその格を高め合ったということを書きたかった。

 テレビ出演と社会評価は相補的な関係にある。そうあるべきだという話ではなく、それが良い悪いかは別の話だ。しかし現状として、人間社会は常にグルーピングしたがる。テレビ出演が社会的評価のバロメーターになっている。

 

 これからは社会的評価装置はテレビだけでなく別の媒体に映るだろう。例えば、ヒカキンのチャンネルにゲスト出演すると、社会的信頼度が増したり、逆に嫉妬されてこき下ろされたり。

 

 テレビ業界もわりと狭い閉塞空間であるのかもしれない。

 ジャニー喜多川一人が男性アイドル界を牛耳れたりするしね。

 

 私はなるべく閉塞空間から逃れて自由に生きたい。