1 ウクライナ戦争の現況

 

2024年2月24日に始められたロシアによるウクライナ侵略は、2年を超え徐々にロシア軍側に有利に展開しつつある。ウクライナ軍は劣勢であり、今後NATOの軍事支援を受けどこまで挽回できるかどうか、微妙な状況にある。

 

ウクライナ政府とロシア政府は、それぞれ自国の基本的な立場(注)を踏まえた和平提案を提示しているが、和平交渉の見通しは全く立っていない。

 

日本政府は、人道援助やウクライナ戦争終了後の復興援助の実施など、G7諸国などの民主主義諸国と協調して、ウクライナへの支援を続けてきている。ウクライナ政府の提唱する和平提案に賛同し、ロシア政府の和平提案には反対している。

 

結局、戦局が硬直化している間は、政治的な動きが本格化する可能性はほとんどない。こうした状況は、2024年11月のアメリカ大統領選挙を経て、2025年1月に新たなアメリカの行政府がするまで、続いていくことだろう。

 

(注)ウクライナ政府の基本的な立場:ロシア軍が、2014年のロシア軍のクリミア及びドンバス地域への侵攻以前に敷かれていたウクライナとロシアの国境線まで撤退すること。

 

ロシア政府の立場:クリミアのみならずドンバスのロシア編入の固定化。将来のウクライナがNATO加盟を断念し、中立的な立場に立つこと。

 

2 戦争の政治的解決について

 

ウクライナに対するNATO諸国からの武器援助も遅れを見せており、劣勢な状況下のウクライナ軍が少しでも戦線を押し戻すには、かなりの時間がかかると予想されている。

 

片や、プーチン大統領は、最近ショイグ国防相を更迭し、経済担当のアンドレイ・ベラウーソフ第1副首相をその後任に据えるなど、戦争経済の円滑な遂行と戦争の長期化に備えている。

 

人道的な見地から見れば、早期にロシア、ウクライナ間で政治的な話し合いが始まることが望まれるが、両国の立場は、水と油の関係にあり、NATOはじめ日本など民主主義諸国は、戦争の政治的解決を展望できない状況に置かれている。

 

3 ロシア国民の動き

 

戦争の長期化が予想される中で、ロシア国内各種世論調査を見ると、国民の70%以上は、プーチン大統領の政策を支持している。かつてロシアはアフガニスタン紛争に介入し、ロシア軍の同国侵攻は約10年にわたって続いた。その間戦況はロシア軍に不利になる一方であり、多数の若い兵士たちの命が失われた。この状況を目の当たりにし、従軍兵士の母たちは立ち上がってロシア兵士の祖国への帰還要求を行った。これが一つの大きな契機となり、ロシア政府はついに自国軍をアフガニスタンから完全に撤退させた。しかし今回は、プーチン大統領の国内統治の「よろしき」を得て、兵士の母親たちは、政府に同様の要求を示す動きを示していない。

 

プーチン政権の強権政策の下で、ロシア国民の言論の自由は大きく制限されている。戦況がロシア側に不利になり、国内経済がうまく回らなくなるような状況になれば別な話であるが、当面ロシア国民がプーチン大統領に戦争の中止を求めて立ち上がることは、予想されていない。

 

一方、プーチン大統領に政治的解決の選択肢を取るよう求め得るのは、ロシア国民以外にない。アメリカを含め第3国が動く余地は、ほとんどない。そのプーチン大統領も、決して不死身ではない。今すぐに健康上の問題が発生するとは思えないものの、やがて権力に陰りの見える時が来る。その時に権力移行を平和裏に行わせることができるのは、ロシア国民である。プーチン大統領が自ら引退する必要性を悟り、静かに政治の舞台から去ることを決断するか否かは、一にも二にも、ロシア国民の世論次第である。

 

日本国民としては、ここに着目して、平和的な政権移行のために今から何を準備できるかについて、日本政府に代わって検討していくことが重要となる。

 

4 文化の賢い活用

 

最近筆者は、「元外交官が大学生に教えるロシアとウクライナ問題―賢い文化の活用」と題する本を上梓し、国内外の文化人などが協調し、ロシア国民に平和の尊さを改めて認識してもらう活動を展開すべきであるとの問題提起を行った。

 

日本政府は、対ウクライナ支援や日本国民のウクライナ国民との連携の動きを活発に行っているが、ロシアとの関係においては、プーチン大統領及びロシア政府に対する批判以外に有効な手を打てないでいる。そこで、政府は兎も角として、何とかして日本国民がロシア国民との直接的な連携を深めることはできないかと思い、「文化の賢い活用」を提言した次第である。

 

「文化の活用」に大きな制約があることは、十分に承知している。第3国の文化人が結集して短期的にロシアのような権威主義国の政策を変更させることは、不可能である。そもそもロシア人は非常に愛国心が強く、私たち第3国の人間から一方的に非難されていると感じる場合には、心を硬く閉ざしてしまう。また、文化といったソフトパワーであっても、やり方を間違えるならば、発信する日本の文化人側も、受け手のロシア人側も、ロシア政府による弾圧の標的になってしまう恐れがある。

 

私は、上記の拙著において、坂本龍一が生前、ロシア軍の攻撃を避けてキーウの地下壕に身を潜めていたウクライナ人音楽家イリヤのために、”Peace for Illia”と題する曲を作って送ったことを紹介した。そして、もしも坂本氏が生きていたならば、” Peace for Russians” を作曲してロシア人に聴かせてもらいたかったと書いた。

 

優れた音楽家の持つ力は非常に大きい。ベトナム戦争反対運動をアメリカ国内から世界的規模に広げた一つの要因がビートルズの歌であったことは、有名な話だ。これほどの影響力を発揮したわけではないが、三枝成彬氏作曲の「最後の手紙」のヴォルゴグラードとサンクトペテルブルク公演の世話をした時の経験を通じて、国境の壁を乗り越えて平和の尊さをロシア人の心に届け得る実体験をした経緯を、私は拙著で紹介している。

 

2024年5月13日にNHKで放映された「映像の世紀―奇妙な果実―」も、時間を越えた影響力を持つ音楽の力のことをよく描いている。これは、アフリカ系アメリカ人歌手ビリー・ホリデイが歌った曲を巡るドキュメンタリー・フィルム番組である。ウクライナ南部出身のユダヤ系アメリカ人エイベル・ミーアポルから、同氏作詞の「奇妙な果実」(”Strange Fruit”。リンチに遭った黒人の死体が木から吊り下げられている様子を歌った詩)を読んで感動したビリー・ホリデイは、1939年にこの曲を歌った。瞬く間に、全米に広まった。2020年アメリカで黒人男性が白人の警察官に首を押さえつけられて死亡事件を契機に、全米的に繰り広げられた” Black Lives Matter”運動の際に、再び「奇妙な果実」は歌われた。

 

私は、日本の音楽家に対して、新たに「平和の尊さ」を訴える曲を作り、SNS等の通信手段を通じてロシア国民に送り届けるよう強くお願いしたい。

 

日本のアニメは、世界的な影響力を持っている。アニメ作家には、「ばらまきボンビ」に類する人気ゲーム・ソフトを開発し、ロシア・ウクライナ戦争をテーマにして平和の尊さをロシア人に訴えていただきたい。

 

文学の分野でも、拙著において、大江健三郎著「広島ノート」を取り上げた。同書のロシア語翻訳をロシア国民に広く読んで欲しい。核兵器の使用をちらつかせるプーチン大統領に再考を促す気持ちにロシア人がなることは必定である。

 

「文化の賢い活用」については、さまざまな可能性がある。こうしたソフトパワーをロシアへの「平和攻勢」に活かす力は大きい。日本の文化人よ、立ち上がって欲しい。