先日、ふとした弾みで、美大時代の友人達の活躍を、インスタグラムで知ることとなりました。


地元へ帰って設計士として活躍していたり、フォトグラファーとして全国を駆け回っていたり、在学時からの表現を突きつめて作家活動にまい進していたり、と。

それぞれの才能が、しなやかに社会へ還元されていることを知れて、収まるべきところへ収まったんだなぁ····と、ほうっとした程でした。(各々に紆余曲折のあったことも、小耳に挟んでいたので)

きらびやかな部分を中心に切り取られた景色であって、それが日常のすべてでは無いことは過るけど、そこそこは真に受けても、良い気がします。そのほうがこちらとしても、よっぽど励みになりますし。


そして、それらの投稿を目にした私が焦燥感を抱かなかったことにも、また安堵を覚えていました。

20代半ばの私といえば、Facebookでかつての友人達の花々しい生活(に見えて映った)を目にして、妙な焦りを感じていましたから。それも若さの1つの側面だったのかもしれないけど、パソコンの画面越しに苦しんでいたなぁ、勝手に。(若と苦ってよく見たら、貌そっくりだ)


かつての知人たちへ『今の私はこうです!』と、前のめりで伝えたい気なんてそうそう無く、かといって、隠したい何かがある私でもない。幸福感に満ちているって、こういった状況のことじゃなかろうか?

『そりゃーアンタ、もうすぐ子どもを迎えるわけで、一番幸せな時期じゃん』ということだけでは、きっと無いはず。

私の人生の青写真から大きくブレることもなく、自分が惹かれるものや、しっくりくる手応えを辿って生きていると、自信を持って言えるからですかね。


これは美大へ身を置いたことによる、負のほうの財産かなぁと見なしているのですが【より才能がある方の勝ち】みたいな価値観が、大学生活を通して根深く育まれてしまっていたようで。

卒業後もしばらくは、“何者かにならなきゃいけない”みたいな観念に縛られていた気がします。どこか芸術家を気取る風も、あったかもしれません。(そんな風に振る舞うって、しんどいなぁ)


そうしていつしか何かを諦めていって、という訳でもなく、自然と“何者も目指さなくても良い”との許可を、いつしか出せようになっていました。もうじき、母親へと変化はするはずですけど。見方によっては、倍率は低くともフォトグラファーより難関な道かもしれない。比較の世界から降りることが出来た、という経験が、せめて子育てに役立ってくれたならば良いな。


文面の頭から末まで、大きな気持ちの変化を綴ったわけでは無いので、なんだか凪いだ海のような記事でありますね。穏やかな海面へ、私の心情を碇として、沈めるような作業でした。

でもまぁ····たまには、こんなのも!


Arisa