百貨店での仕事に従事して、2年強の日々でした。
売り場にも裏舞台にも、世知辛さはやっぱり蔓延っていたけれど、素晴らしい場面にも何度も立ち会えたよな、と言葉に出来るあたり、そこそこ性に合っていたと思えるのです。

大勢の人と知り合えた日常でしたが、とりわけ今年の春に出会えたYさんは、特に印象深い人でした。ある催事で隣のお店同士になったのですが、私とは別のマネキン会社所属の、大学生のお子さんが2人いらっしゃるママさんで、すごく気さくな感じの良い方でした。催事の期間中、一緒に帰ったりもしていました。

催事最終日の終わり際、なんだか無性にYさんへ、優しく関わり合えたことの喜びを伝えたくなって、勤務していたお店の商品を買って渡すことにしました。
『これ、売り物のパスタソースなんですけど、私から。1週間でしたけど、仲良くなれて嬉しかったから』と、差し出した時点でもうすでに、私の胸に暖かいものが灯っているのが分かりました。
Yさんからは『え···そんな、悪いよ!』と言われたのですが、“悪いだなんて少しも心に過ぎらせないで、嬉しいとか前向きな気持ちで受け取ってくれたら、私としてもこの上なく嬉しい”と、心底思えてなりませんでした。
そうして快くソースは受け取ってもらえたのですが、800円のソースの価値を、2人で無限に膨らませたような感覚が漂っていました。

そのあと撤収作業が始まって、隣のお店は早々に作業を終えたにも関わらず、入金作業へ行っていた私を、わざわざYさんが待ってくれていました。
『さっきソースを手渡された時にね、なんだか胸が暖まるのを感じたのね····。また、どこかで会おうね』とYさんの言葉を受けて、胸の灯りってやっぱり伝播しているんだな、心ってなんてアケスケなんだ、でも今はそのことが こんなにも嬉しい····!と、静かに胸が震えるのを感じて、おたがいの目にも同じものが滲んでいました。

あの人がこれから先も、どこかの百貨店の催事場で仕事に励んでいると想像するだけで、電車内の催事の広告も輝いて見える、ような。(似たようなこと、星の王子さまでも書かれていませんでしたっけ?)
心の宇宙へそんな浮かべ方が出来る人と、どれだけ出会えるかが人生のミソかしら。

仕事を通じて感謝している人はたくさん居れど、好きだと言い切れる相手って、やっぱりそこまでは多くない気がしていて。
私がいつも好きになるのは、こちらが手を振った時には、迷いなく手を振り返してくれると確信出来るような相手ばかりです。(誰にとってもそうなのかなぁ)

【感謝する】って、清濁併せ飲む、あらゆる事象を過去に出来てしまう、完璧な要塞のようなイメージがあって、“もうその言葉以上のことには踏み込まないでくれ”という、大人の態度だよなぁと感じます。社会を真っ当に機能させてくれる概念だし、そこに美学があるのも分かるし、鈍色の輝きを放っているなぁと。
ただ、混じり気のない【好き】の気持ちを前にしたら、感謝の念なんて弱いものなのだろうなぁ。(だから子どもに対して“感謝への転換”を教え諭す時期は早すぎてもよくないだろうし、見極めねば。)

ある先輩から『この仕事はさ、またいつでも出来るから』と言われて、おおらかな餞の言葉だなぁと思いました。
確かに入口も出口も緩やかな関所みたいだし(社長という門番に睨まれたら話は違ってきますが)、人の出入りには寛容な気がします。もちろん内側には、迷宮みたいな各所もありますけど。
“またいつでも〜”の言葉を真に受けれるほどに、私も若くはないのですが。やがての私が別の世界を望むかもしれないし、戻ることを望んでも叶わないことだって有り得ますし。

あまり遠くを眺めたりはせずに、瞬間ごとに都度、風向きを感じ取りながら、抵抗がないほうを選んでゆけたらなぁと思っています。百貨店の催事場へだって、そういう兆しを頼りに辿り着いたのだから。どこかや誰かを目指して歩いているわけじゃない、その時の自分に相応しい景色をあてがうことを、繰り返してゆくのみです。

そうしてつい先日、地方の百貨店の物産展を覗いたら、知り合い数人が働いているのを見掛けたのですが、寂しさがそんなには募らなかったことに、我ながら驚きました。
もっと、居場所を消失した気分に陥るかと予測していたのに、もう別のものが心へ寄せられている証なのだろうか。まぁ寂しいだなんて、のたまってはいられないか····私そのものが、居場所へとなるわけなのだからね。

百貨店にて奮闘編、これにていったん、おしまい。

Arisa 🪐