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カピバラ日和

東京女子流が大好きです。

Youtubeの動画から東京女子流にハマり、次は女子流主演映画から山戸監督にハマってしまいました。


 3月8日の公開日に初めて観て、その日に感じたことを書き殴って、はや半年以上。渋谷シネマライズに始まり、全国20か所近くの劇場で息を継ぐようにロングランを続け、アミュー厚木のシネマ.comで一区切りを迎えた、映画「5つ数えれば君の夢」。

 そんな本作もいよいよソフト化され、お茶の間に現れることとなりました(パチパチパチ)

 これまで繰り返し本作を観続け、その中で新たに感じたこと、思ったことを、また文章にしてみます。


 
1)構造


・誰が物語の中心なのか


 物語の核となるのは、語り部たる さく と思う。 
 ただし、それはあくまで物語を後ろから読み解いた結果であって、最後にさくがモノローグで登場する=語り部であることが明かされるのは、一種のオチだと思う。


 だから最初は、皆がよーいドンで走り出す、5人の主人公が並走する物語に見える。

 さくに焦点を当てると、その行動に最も深く結びつくのは「ミスコンの準備を手伝って」と誘うりこであり、そこに横槍を入れる宇佐美軍団と言える。直接絡むシーンこそあるが、委員長とのつながりは薄い。

 さくとりこは1ペア。

 それに倣って宇佐美と都をペアにすると、委員長ははぐれる。ここで委員長を誰かとペアにするならば、たかしとの組み合わせになるわけだが、たかしの彼女が絡んでくるのは避けられない。他のペアにも同じように関係する人物を入れていくと、最終的には三角関係が3つできあがる。※私が最初に気づいたわけではない
 きしみながら転がっていく3つの三角関係、愛憎劇とも言えるようなものが浮かび上がってくる。


 この中で物語の姿を反映しているいわばミニチュアとなっているのが、みちるという説がある。※私が思いついたものではない。

 この映画が、女子高という箱の中で様々な感情に揉まれながら、今の自分ではない何か、ここではないどこかへ達しようとする少女たちの姿を描いているのだとすれば、それはまさに外の世界で認めてもらうことにこだわる、みちるの生き様であろう。ペアを作った時に浮くのもみちる。どこか特別な感じがする。




・夢とは何か


 タイトルコールの前に5人が「愛しています」と囁くわけだが、この映画の底には「愛しています」というメッセージが流れているような気がする。

 それぞれの三角関係、もとい5人の主人公たちの「夢の形」は、愛のショールームを見ているようだ。


りこはダンスを愛する。人ならざる対象に向けられる愛。

さくは美しいりこを愛する。美しいものに向けられる愛。

都は同性の宇佐美を我が身の片割れのように愛する。

宇佐美はイケメンを愛し、バージンを捧げる。

みちるは血のつながった兄を愛する。道ならぬ愛。


 5人の主人公たちは、愛を抱きながら様々な奮闘を見せる。 


りこはシューズを絶えず持ち歩き、暇を見つけては踊って見せる。そして、最後は夢に向かって一直線に飛んで行ってしまう。

さくはその思いを自分の裡にくすぶらせ、ついに告げられぬまま愛を失う。

都は思いを爆発させる。

宇佐美の愛は早々に砕けてしまい、その破片が突き刺さる痛みに苛まれる。

みちるは思いを力に代えて、壁を乗り越えようともがく。

 


・音楽から推し量る


 最初は一斉に走り出す5人の主人公たち。だから、BGMも均質に時間を埋めていく。


 大事なセリフの時にBGMが消える。これも山戸監督の得意技だと思うのだが、本作で言うと、屋上で赤いマーガレットの手入れをしているさくに、りこが「それちょうだい」と声をかけるあたりから、どうやらBGMがなくなっているみたい。


 BGMも、5つまで数えられる。


 最初に流れている曲を仮に「テーマ1」だとすると、2曲目にあたる「テーマ2」が流れるのは、宇佐美軍団が都を中心に何やら悪巧みをしているような会話のシーンである。この曲はそれ以降まったく登場しない。次の「テーマ3」が登場するのは、たかしがみちるにお弁当を届けるシーンである。そして、夜の体育館で都が宇佐美に思いを爆発させる次のシーンでは、「テーマ4」に切り替わる。

 「テーマ4」は不協和音を伴いながら終わり、しばらくBGMがない状態が続く。そして、プールのシーンになると再び「テーマ4」が流れる。それが終わり、エリーゼのためにの旋律がすべてを支配する圧巻のダンスシーンの後、みちるがたかしに思いをぶつけるシーンで「テーマ5」が流れる。この「テーマ5」は、映画の予告動画のバックに流れているものである。その後のモノローグ、さくがりこへの思いを思い出しつつ紡ぐかのように語る。ここで再び「テーマ4」が、今度は静かに流れる。


 主人公たちがそれぞれに絡み合い、求め、阻害し、転がっていく中で、静寂とBGMとが代わる代わる聴覚を乗っ取り、映画の後半の音響は変化に富んでいる。「テーマ4」が三度、それぞれ相手に気持ちを吐露するシーンで使われているが、みちるの告白シーンだけ「テーマ5」が使われている。このことも、みちるの位置づけが他の4人と違うのではないかと考えさせられる。



 
2)ディテール


 本作の細部を観れば観るほど、隠された仕掛けが見つかる。 



・みちるは本当に校舎の裏でたかしに告白しているのか
 
 想像の範疇ではあるけれど、確かに目に見えるサインがある。
  
 みちる「夜眠れば夢をみて、朝目覚めると、あなたに会うでしょ?そうすると、何の夢をみていたのか忘れるの。いつか、自分の夢を覚えていたいと思うのに。いつも一晩中、朝が来るのを夢みていたような気がするの。夢の中でも、あなたの背中を見つめているのよ。瞬きするたび、そのつむじを撫ぜているようなの。朝あなたの顔を見ると。そして、そのまま、煌めきに溶けていくの。・・・ダーリン、ゆっくり眠ってね。」  


 この長台詞の裏で、じつは、バックの照明が変化していくのである。


 生け垣とフェンスの向こう、白いライトが、長台詞が始まると同時に黄色味を帯び、緑に変わり、「そのつむじを撫ぜているようなの」のくだりでは赤くなる。そして、終わるころには白色に戻る。

 思うに、これはみちるの心象風景なのではないか。

 本作で、このようにライティングが変化することは、無い。他の山戸監督作品でも、「あの娘が海辺で踊ってる」から「Her Res-出会いをめぐる3分間の試問三本立て-」そして「おとぎ話みたい」に至るまで、リアリティに手を加えるような光の演出は無かったように思える。

 だから、このシーンは他のシーンとフラットな次元を描写をしているものではなく、その場に発現していないものを描いているのではないか、と思う。

 もう1つ、体育館のすぐ外でたかしに告白するシーンがあるが、それはその場での発言だと思う。


 


・「巨神兵のいない東京」 


 疑う余地もないが、巨神兵といえば、宮崎駿作品の「天空の城ラピュタ」に登場する、かつて一大文明を滅亡させた「火の七日間」をつくりだした人造兵器であろう。
 なぜ東京なのか。これは東京都現在美術館の展覧会で2012年に公開され、その劇場版が「新劇場版ヱヴァンゲリヲン:Q」と同時上映されたことで知られる、庵野秀明監督の映像作品「巨神兵東京に現わる」に由来すると考えられる。
 

 宇佐美「何をするっていうの。ただ毎日一緒にいるだけじゃん。」
 都「宇佐美のいない毎日なんて、空っぽの心と同じ。巨神兵のいない東京よ。お布団のないコタツなの。そこに座って、君の詩を書いている。」

 
 他に列挙されているものから推測すると、東京にとって巨神兵という存在は欠かすことのできないもの、という意味にとれる。


 「巨神兵東京に現わる-TV版-」を観た。林原めぐみの語りで、滅びの予兆から滅びのその時までを淡々と描く。オリジナルにおいては、CGを使用せず特撮のみで制作された意欲作だという。スケールがメチャクチャなことを除いて、とてもよくできていた。日常の中で”予兆”に気づくこと,または世界が定められた終わりへ向かうことに、どう向き合うか、そのようなテーマを感じた。
 
 世界を終わらせるために、巨神兵が東京へ遣わされる。巨神兵のいない東京、終わらない世界。
 巨神兵のいない東京は、来るべき終わりのこない、だらだらとした日常?


 


・「悲しき熱帯」


 全く意味不明であった。
 劇中でのやりとりは次のような感じ。
 

 たかし「何でもとか、全部とか、そういう、懐疑心をもちなよ。宇宙に真空状態は存在してないからね?」
 みちる「宇宙の中に世界があるなら、あなたが正しいよ。」
 たかし「歴史は繰り返すね。悲しき熱帯を進むみちるさん。」
 みちる「覆水盆に返らずですね。」

 
 「歴史は繰り返す」ということから、みちるが以前(例えば、それこそランドセルを背負っているような時分に)同じようなことを言っていたのかと思った。

 だが、「歴史は繰り返す」というのは、普通は「違う役者」が「同じような役回り」を演じることを表す。ということは、みちるではない他の誰かが?例えば、マザコンと謗られるたかしが母親に同じようなことを言ったのか・・・?※これも自分でたどりついた結論ではありません。
 


 それでも、やっぱりよく分からないので、同じ名前の文化人類学の書があるということで、購入して読んでみた。その道では有名なものらしいので、山戸監督も読んでいる筈なんだって。


 レヴィ・ストロース:著(川田順造:訳),1985『悲しき熱帯 上』第7版.中央公論社,東京. (ISBN4-12-000746-4)


 下巻も買いましたが、関係するのは上巻だけっぽい。


 「悲しき熱帯」は、ストロースが熱帯の”野蛮人”を研究する過程で得られた知見や体験を記述したものである。
 下巻は主に南米の原住民の生活を記載しているが、上巻はその他の地域への調査旅行や欧州での見聞なども含めて、非常に雑多な内容が、しかし筆者の実感に裏打ちされた躍動感ある筆致で綴られている。


 さて、これがどう関連するのか。
 上巻を読んだ印象としては、筆者が熱帯の風俗や街並みの中に、たびたび欧州の影をみているということである。


 例えば、
「もし原住民がほんとうに人間であるなら、彼らの中に、イスラエルの失われた十の部族の後裔を見るべきなのであろうか。彼らは、象に乗ってやってきた蒙古人なのであろうか。それとも、数世紀前に、モドック公に率いられて来たスコットランド人なのであろうか。彼らは、元来の異教徒なのか、あるいは聖トマスや、再び罪に陥った者たちによって洗礼を施された、かつてのカトリック教徒なのか。」(第三部 新世界 第8章 無風帯)
 などという記述がある。


 また、
「この巨大さの印象は、アメリカに特有のものである。都会でも田舎でも、人はこと巨大さに遭遇する。私はそれを、中部ブラジルの海岸を前にして、また高知地帯でも、感じ取った。ボリビアのアンデス産地で、コロラドの岩地で、さらにリオの町はずれで、シカゴの郊外で、ニューヨークの街中で。いたるところで、人は同じ衝撃に捉えられる。」(同)
 というように、熱帯と北米とを比べることもある。

 
 こうした比較を通して筆者は人間の普遍性みたいなものを浮かび上がらせたいのか、そのようにも感じられるのだが、それは置いておいて、この「あるモノの中に別のモノを見出す」ということが、「歴史は繰り返す」、つまり「みちるの行動の中にたかしの過去を見てしまう」ということなのでは、と思われる。


 
 

・意外な特技


 ずっと分からなかった、宇佐美の特技。
 勘の良い人のツイートで気づかされた。

 ミスコンのシーン、ステージにいる宇佐美は手を後ろに回している。
 その後、都に話しかけられるシーンでは、ちらっと、背中が見える。


 棒!?


 その後、都の伴奏に合わせてりこが踊り、宇佐美が肩を落とすシーン。
 手に何かを握っている。

 ソフトで確認したいが、どうもこれはゴルフクラブのように見える。

 これはゴルフボールリフティングでもやる積りだったのではないかと。



  
・日付の謎


 文化祭当日は10月20日。
 物語が始まるのは10月2日。
 ただし、中盤のシーンでも、黒板の日付は2日のまま。

 黒板に2日の日付が記されているのは、次のシーン。


・冒頭、A組のミスコン候補が多数決により選出され、りこが指名される。放課後とみられる。

・A組のミスコン候補と目されるりこが、C組のさくを訪ねる。授業の中休みとみられる。

・教室で、先生とみちるが話している。授業の中休みとみられる。


 ここで注目しておくべきは、ミスコンの候補が決定してA組の総意となるのは放課後であるという点。映画の中ではこの順番だが、実は、ミスコン候補が正式に選出されるより前に、りこはさくに接触したのではないか。未来を読んだのか。
 みちるに関しては、ミスコンの候補に関わるような話はしていないので、推測で補う余地は無い。




・上埜すみれさんの謎


 山戸監督作品の常連として知られる上埜すみれさんは、本作ではモブとして登場する。そのシーンを列挙する。


・さくが独りで屋上の花壇を手入れしている最初のシーン。リボンは赤。上埜さんは後ろのベンチに座っている。

・みちるが黒板前で先生と話すシーン。リボンは緑?後述する。

・花壇をいじっているさくに、りこが声をかけて赤いガーベラを求めるシーン。リボンは赤。上埜さんはベンチに空きが無く仕方なく壁に背をもたれて何かを読んでいる。

・実行委員の後輩がC組の宇佐美グループの会話を聞いてみちるに報告して廊下を歩くシーン。リボンは黄。上埜さんは後ろから廊下を歩きながら、友達に手を振ったりしている。

・屋上で、完成した花壇を見つめるりこに、声をかける。リボンは赤。以降、河津桜のハッピを着てミスコンの委員として奔走する。


 みちると先生が話している時、最初は席に座っている上埜さんが、瞬時に黒板の横に移動して友達と○×ゲームをしているという現象が観測されている。 

 

 ちなみに、監督にきいてみたところ、「双子説」とのこと。納得。


 
3)テーマ


 監督のトークショウすべてに行ければ良かったが、仕事に穴をあけられず、全通というわけにはいかず・・・

 その限られた知識の中で、映画の内面をいろいろと考えてみる。




・描きたいのはレズなのか


 さくはりこを愛する。これはレズっぽい。

 都が宇佐美を愛するのは完全に同性愛にみえる。


 監督のレズ説も、考えてもいいかもしれない。


 メイキングDVDで都役の小西彩乃さんが、都が宇佐美へ思いをぶつけるシーンでの自分への演技指導をする監督の姿を見て、「これは監督がやりたかったことなのかもしれない」と直感したという。

 これは関係あるか分からないが、山戸監督の上智大映研の後輩で作品上も親交の深い上埜すみれさんはレズであることを明言している。




・男という存在の耐えられない軽さ


 本作において男は添え物である。主人公の少女5人の織り成すドラマを彩る飾りに過ぎない。


 監督は、ジェンダー論者としてメッセージを発信しているわけではないと語った。山戸監督は確かにとことん少女のための少女の物語を紡ぐが、女性の復権とか、社会進出とか、女性差別の撤廃とか、女性崇拝とか、そういう構えたテーマではないという。

 やはり、女が添え物となる映画が多いこの世の中で、それと真逆のものを作った、というだけなのではないだろうか。

 男中心の例えばアクション映画や冒険活劇で、女性は相棒だったりすることもあるが、所詮は男に都合の良い描かれ方をされる。全部が全部というわけではないけれど、エンターテインメントとして面白いことが、必ずしも女性を添え物に留めないことではないことは、常日頃感じる。

 本作をはじめとする山戸監督作品はその逆をいっている。ひたすら少女の物語であり、男はそれを盛り上げるだけである。世の中に女性を主人公にしている映画はたくさんあるから、その一点をもって他に類が無いなどとは言わない。けれど、少女の痛々しいほどのリアルが描かれているのに対して、男は驚くほど薄っぺらい。これがまさに、主人公の英雄とイチャこくためだけに登場するヒロイン像の逆転に見える。


いいぞ、もっとやれ。




 とりあえず、劇場公開がひと段落ついた時点での研究結果はこの通り。

 あとはBDをリピートしつつ、監督の過去作「おとぎ話みたい」も12月に新宿で1週間上映されるとのことなので、そちらもぜひチェックしたい。