Astalight*です。いつもカピバラです。
「5つ数えれば君の夢」という映画が縁で、山戸結希監督にすっかり魅了されてしまいました。
というわけで、監督の3作目「おとぎ話みたい」も、性懲りもなく何度も観ているわけです。
この映画を初めて見たのは今年のゴールデンウィーク。
その時の感想です。
(2014.5.4)立誠シネマプロジェクト「山戸結希監督特集」で、「おとぎ話みたい」を観てきました。
http://www.twitlonger.com/show/n_1s1lc36
12月6日より公開されているのは、通称「新劇場版」といわれるもので、5月に私が観たものと少し違っております。
どこが違うのか、記憶の混乱もあって定かでない部分もありつつ、今回は新たに空撮シーンなども取り入れて、小手先だけのお色直しではありません。
何といってもこの作品は、山戸監督の2作目の映画である短編「Her Res」がフルスイングで空振りとなり、「一人スカラシップだ」と意気込んで着手した、未曽有の超虎の子なのであって、山戸監督の滾る血の注ぎ込まれたそれはもう危険な代物なのである。
この思い入れを強く感じるのは、実はその新たに撮られたという空撮シーン。
ラストで、おとぎ話のCOSMOSに乗せて、主人公の高崎さんがモノローグで新見先生に別れを告げる。卒業式の希望に満ちた空気の中で、高崎さんは恋に敗れて、屋上で独り踊るのである。その最後の最後、シーンは、日本ウェルネス高校中野校舎の屋上から刈谷市立依佐美中学の屋上へと変わり、そこをヘリコプターが引いていくという、そんなカメラワークがみられる。
愛知県刈谷市立依佐美中学校は監督の母校であり、その周りの田んぼの風景こそ、山戸監督の原風景といえるのではないか。
依佐美中ホームページ
http://www.city.kariya.aichi.jp/school/yochu/top_nikki/page1gakki.htm
朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASG2P577NG2POBJB003.html
これは監督が「田舎」で過ごした時間が写し取られている映画なのだ。
田舎、地方、などと、処女作の「あの娘が海辺で踊ってる」から幾度も語られてきた言葉だが、ここにきて、肉迫するものとしてその情景を突き付けられた気がした。
研究を進めているけど、中間発表にはまだ至らない。
とりあえず、メルロポンティを読み、おとぎ話さんの曲を聴くところから始めますね・・・
さて、今日は山戸監督をいち早く発見して見守ってきた中森明夫氏と、山戸監督が懇意にしているいわば業界の母ともいうべき豊崎由美社長との対談でした。
その中から印象に残っているやりとりを、自らの備忘録としてここに残しておきます。細かいところが違ったりするかもしれないのでいつか山戸監督のトーク映像がソフト化することを信じて・・・
中森「この映画は趣里がヤバい。役者としてのボルテージを最大限に引き出している。」
山戸「趣里さんの少女期の最後の瞬間を切り取らせてもらいました。この映画が初主演だったのですが、趣里さんに初めて会った瞬間に、才能のカタマリだとわかりました。立ち姿から違っていて。この人は、爆発を待っているんだって。」
豊崎「学生の頃は皮をかぶっていた?おとぎ話みたいには私小説的なエッセンスもある?」
山戸「そう、タヌキのように皮を被っていて。直接的には、高崎シホと私とは共通点はないです。夢の中では手をつないでいる、みたいなものかも。」
中森「主人公はイタい女の子だよね。でも、映画で観ると感動するという。主人公は山戸さんの中にあるもの?」
山戸「当て書きをしていて、趣里さんの肉体の存在不安みたいなものが描かれています。学校の風景というのも、校舎に当て書きをしたものです。鏡のようなプールの水面とか。校舎は肉体として見ていて。例えば処女作のあの娘~でも、熱海が容器に見えて。廃墟みたいな街の渇きと、海辺の潤いがあって。趣里さんとは2012年5月のイベントに何分かお話しして、バレエをやっていたのもすぐわかって。」
豊崎「あの娘~で親友(ホトケの菅原)が海辺で踊っているのを観て、この世のものとは思えないほど爆笑してしまった。踊りって、本人はちゃんとしてるつもりでも、他人から見ると奇天烈以外の何物でもない。私は言語中枢で生きている人間だから、ダンスが恥ずかしくて。山戸監督作品でダンスが出てくるのはなぜ?」
山戸「親友役の上埜すみれちゃんは私の大学の後輩で、友達です。そのような、普通の女の子が撮られる時に頼るものといったら、それは技術や肉体では有り得ないと思って。肉体は生きていた証が刻まれているもので、普通の女の子にそれは無いから薄っぺらく見えてしまう。その時に、例えば何百年も受け継がれてきた日本舞踊というものは、その歴史の厚みがあって。時間と身体のもっている揺らぎを、その厚みで補う。卑しいから踊らないのではなくて、卑しいと言いながらも踊る。その逆説性。卑しいといっても、卑しさのままに(肉体を)消費されるのではない。人間の卑しいバージョンとしての女性と、言語的なものとしての男性があって。女性は最盛期を過ぎてどんどん卑しくなって、そしていつか空洞化する。」
この後、プレイヤーとディレクターという話が繰り返されたんだけど、ここはどうも整理できなかった。
撮られる側がプレイヤーで、撮る側がディレクターということかと思うけど、プレイヤーとして戦わないと、高崎さんに怒られそう。
今日の豊崎社長や中森さんからも、撮られてみなさい的なことを言われていて、私らもそう思うんだけど、あくまでプレイヤーに光を当ててレンズを向けるのが自分の本分と心得ているということかな。
監督が踊る日も、いつか楽しみにしています。