カピバラ日和

カピバラ日和

東京女子流が大好きです。

 東京女子流が、解散するという。

 

東京女子流から皆様へ大切なお知らせ

 

 最後に買った円盤はピリオドベストだから、他界してから実に8年が経つ。グループの年月としては、私が目を離してから、また小西彩乃氏や松井寛氏,藤原俊夫氏が抜けてからのほうが長い。佐竹義康氏が思い描いた飛躍の軌跡を、残されたメンバーが継承して自分の翼で羽ばたいてきたのだと思う。

 

 私の心は完全に離れていたが、わずかな未練は捨てきれなかった。PCのHDDが逝ったりTwitterアカウントがロックされたりしても、それなりに対価を払って女子流の痕跡を繋ぎ止めてきた。当時集めたCDなどは一つも捨てずにとってあるし、ジャージやトートといったグッズはまだ現役で普段使いしている。毎年武道館から国技館をハシゴするももクロの背中に女子流の残り香を感じるのが年越しの恒例イベントだったし、年に1回か2回新譜を試聴して相変わらず刺さらないことを確認するといった営みも繰り返してきた。ただそれからは一銭も落としてこなかったので、他界していたことには違いないでしょう。理由を挙げるとすれば、和歌山女子流の記事に書いたように当初は「間違いなく実在するのに年齢を伏せているなどどこか浮世から線引きされている5人のティーンが背伸びした渋いクセつよ楽曲を職人のように仕上げて持ってくる」的な部分が刺さっていたものの、年齢も公開されて、4人じゃなくなって、ティーンじゃなくなって、パーソナリティと楽曲の世界観とのギャップも感じられなくなって、少しずつ良いところがなくなったからだと思う。

 

 2012年から2017年。本当に人生の中心に女子流があった。濃密とか熱狂という言葉は違うかな。耽溺といったほうがよいかもしれない。

 女子流に出会えていなかったら今の私はないし、他の何かに出会って今より満ち足りた日々にできていたかというと、その想像すらできない程度には、人生の根幹と融けあって分け難いものとなっている。感謝しきれない。結婚して子供が産まれておばさんになっても、彼女たちは自分のペースで歌とダンスを世界に発信し続け、僕らもそこに心を置き続ける。そんな時間が永遠に流れるものと漠然と思っていた。全く他力本願な甘え。

 

 あの頃、円盤やステージパフォーマンスといった成果物がリアルタイムで出力される現象を、楽しませてもらっていたのだと思う。それらが好きだから張り付いていたし、好きなものが出てこない間に離れてたという認識でいる。結局その勢いでアイドル界隈からも縁を切ってしまい、その後に行った音楽系イベントといえば現代音楽のコンサートくらいだったので、本当に音楽作品を追究している人間といえるのか怪しいところだが。前に「4人体制の評価は市場に問いたい」というようなことを書いたが、結局私の肌に合わなくなってからの状況は分からんので判断がつかない。ぼんやりと思うのは「女子流らしさがアイドルらしさと乖離しているのでアーティスト宣言をして距離をとった後、そんなにズレてないしアイドル業界を捨てるのも賢明とはいえないと考えて戻ってみたら、アイドルシーンが予想を超えて多様化していて手持ちの武器では尖れなかった」という印象。アーティスト宣言を含めた事業方針の効果や業界に与えた影響とかは、誰か頭のいい人の考察に委ねたい。

 

 ただただ今は「とうとうこの時が」という感情。

 

 経緯や理由なんて正直どうでもいい。続けるも続けないも彼女たちが決断したことが全てだし、一人でも抜けたら解散とかアーティスト宣言みたいな、なし崩し的な扱いの「決意」もあった記憶はあるけど、それも含めて彼女たちの歩みそのものが真実だと思う。過去を読み解いても、理由を訊いても、目の前にあるのはデッドラインまでのスケジュールだけだ。ドロップアウト組なら猶更見苦しい。改めて歌とダンスを正面から受け止める以外にすることはないのではないか。私の人生を一番大きく変えたアーティスト、あるいはファム・ファタルの終幕を見逃したくない気持ちが、在宅してる場合じゃないという気持ちが、大きく湧き上がってきている。ここで参加しないと永遠に取り返しがつかない。そして古のヲタクを恋しく想う感傷もある。

 とはいえ気持ちの無い状態でライブに行っても迷惑なので、近年のプロダクツを再履修しはじめている。TGSナンバーの後半1/3の楽曲群は相変わらず摩擦係数が低く、心の表面を上滑りする感触が強い。他方、思い出補正の懐メロに浸りたいだけなら現場の意味はない。そういえば節回しが変わってるのもあるね。時折新井さんの声が小西さんに似ているように聴こえる。その中に何かしらの楽しみ方を見つけられれば、残り10か月ほどは女子流の周りに集まって、最後の刻を共有したいと思う。