横須賀海軍航空隊始末記 医務科員の見た海軍航空のメッカ | 健全なVINYL中毒者ここにあり

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ラバウル海軍航空隊という名の隊は無いが、横須賀海軍航空隊は存在した。ただしそのような名称の実戦部隊が存在したわけではなく、飛行実験部門(横須賀の主要任務)と実戦部隊を両有する航空隊の総称。そんな航空隊の始末をつけた男?による回顧録。医務科員が始末、だと!?

 

大正9年生まれの著者は昭和14年に看護兵として横須賀海兵団に入団。記述は自分の見聞きしたことに限っている。航空隊、それも実験部隊があれば事故が多いので、いきおい仕事が多い。事故発生の一報が入り、それがどのように伝わり、体制が整えられ出動するかの記述は面白い。(★)以前のこのページで取り上げた犬塚大尉の事故も著者は間近で接していた。司令、副長が‘参拝’やら‘ご神託’云々言うのも耳にしていて、すべて文章化されている。

 

硫黄島に‘行き損ね’て生き残ったはなし、現場でのヒロポンの利用状況についても興味深かったが、昭和20年5月29日の横浜空襲の日のある出来事についてついに詳細を知れた。杉田上空で被弾、落下傘降下した山崎卓一等飛行兵曹が地元民に米飛行兵と間違われて殺害された事件だ。これは当事の日本軍航空隊にはショッキングな事件で、以降ジャケットに大きく日の丸が縫い付けられるようになった。遺体を最初に処置した横浜市大病院、受け取った横空医務科、そして杉田民に憤る飛行兵たちの様子は著者しか知らないことだ。けっきょく終戦後9月15日まで残務整理のため隊に残り、横空の死に水を取ったことになった。海軍入団いらい7年間ずっと横須賀勤務、医務科で働いていた著者は、ものすごく幸運だった。

 

平成15年 (原著は昭和62年)

光人社NF文庫

神田恭一 著

 

購入価格 : \110