昨日、24日(木)は14時から16時まで、消費者基本計画の検証・評価・監視に
ついての消費者委員会を傍聴した後、18時20分開演の「エンディングノート」を
観るべくヒューマントラスト有楽町へ向かった。

映画の開演までの時間の余裕も手伝い、文部省、財務省、外務省のクラシカルかつ格調
高い建物が並ぶ霞が関周辺を散策気分で歩きながら、夕闇に暗み、霜月の気配が満杯の
日比谷公園を横切り、ホテル・ペニンシュラの賑う1階フロアをもスル―して目的地へ
赴いた。

「エンディングノート」というタイトルから、相続案件の参考となる事案が盛り込まれて
いるのではないかとの思いが先立っての映画鑑賞であった。

しかし、作品は、幾多の映画の製作に従事している実の娘(砂田麻美)さんが、会社命の
熱血人間であった実父が第二の人生を踏み出した矢先に発覚した肝臓がんにより、余命
いくばくもない状況下の最期を撮り続けたものであった。

こんなにも自分を重ね合わせて観た映画は、今までに経験したことはなかった。

主人公のような事態に直面した時に、同じ心持ちでいられるかも疑問だし、家内、2人
の娘がどの様な振る舞いで接してくるかもよく見えないでいる。

小さな孫の存在が、こうも死に逝く人への慰みと癒しになることに
感慨深く観入ってしまったのだった。

家内とも向き合って最期の言葉が交わせるのだろうか。卒寿の母にはなんと言葉を掛け
ればいいのか。映画の中の主人公と己自身とが交差し、感情移入が加速度的に深まる。

誰しもが、最期に訪れる物語。私にとっても。決して遠い話ではない。

「エンディングノート」は遺言と違って法的な効力は無いが、自身の死後の処理を、残る
者に託すメセージではあると映画の中で説明する。

映画では、主人公の会社人生を準えながら、「段取」との表現が響く。

キリスト教への改宗を始め、葬儀の場所、葬儀への出席者、死の知らせをする人等、病院
のベッドで、長男との引き継ぎに関する会話は滑稽でありながらもペーソスが伝る。

1人の死も、自身で完結できず、家族を含め社会的な関係性の中にあることを痛感する
のだった。

但し、自身の死に対しては、残る人への迷惑は最小限にする努力はしても無手勝手で
ありたいと思う。

段取りなどという、意識して準備したものでなく自然の流れに乗って逝きたいと思うのだ。


映画を観終わり、イトシアを出ると、丸の内と有楽町駅辺りのイルミネーションが輝く
季節となったことを実感!



団塊のマーケッターのブログ

団塊のマーケッターのブログ

団塊のマーケッターのブログ

団塊のマーケッターのブログ

団塊のマーケッターのブログ