桃色ゲリラ・増山麗奈

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団塊のマーケッターのブログ


紛れ込んだ異時空間の只中で場違いとしか映らない自分がいる。

鈍感なのか、この空間において排斥されているとは感じない自分が

現在に佇むが、意識の中では、現在にありながら自らの過去へと

引き寄せられるのだ。


70年代のアングラ文化が甦る。


舌足らずな口調で話し続ける増山麗奈に既視感さえ覚える。


エロスがSEXをすることの別称のような物言いには驚くばかりだが、

エロスを訴えながらもSEX論議を振り回す論法に増山麗奈は何を

企んでいるのか、訝るばかりだ。同世代と思われる男性群に対して

も挑発しているようでもない。


酒場に集まって談笑する若者たちといった趣向なのか。

青春の光りと影と行った按配だが、それにしては年齢の割には幼な

過ぎないだろうか。


福田和也を師と仰ぐ文芸評論家・大澤信亮とのトークの絡みに何も

見えてはこない。この時代を生きる姿勢が伝わってこないのだ。

大澤信亮の気取りもいただけない。話に首を突っ込む南謙一も衒う

のだが時代を切れないでいた。


性の呪縛が青春の証であるならば、何時までも囚われていたらいい。

そこから突き抜けるまで、迷い続けたらいい。

会場の若い男性のように、セックスレスの夫婦関係を憚ることなく告白

し、パートナーとセックスすることはパートナーへの暴力行為と思えてし

まう感性には、増山麗奈は一撃をかますべきだったのではなかったか。


大人しく聞き捨てる増山麗奈の態度には、桃色ゲリラとは何ぞやと問い

たい。

まして、父親を別々にする2人の子供を持ちながら、絵を描いているとき

でも今の旦那が求めてくると応じてしまうのは自分のスポットを知り過ぎ

ているからとの発言に至っては、Mだと自認することと同様に口あんぐり

である。


今日の増山麗奈のトークにはアートが少しもなかった。幼児性が先立っ

ていた。これでは、桃色ゲリラのパフォーマンスに背後で操る人影を見て

しまうではないか。


もっともっと殺気立つ増山麗奈を見たいものだ。


トークの後には秋葉語録恒例とおぼしきの「詩の朗読会」が催された。

自作の詩、ブログに寄せられた作品を会場の常連者が詠み上げていく。

落ち着いた口調、心のこもった詠み、パフォーマンス十分な語り。

好印象な時間が続く。25の詩全部の朗読に付き合うことになった。


入場時に、料金とビアを求めたとき以外、誰とも話すことなく会場を後にし

たのだった。

40年前、駿台詩人として、雑誌「詩学」の特集六大学詩人特集に名を並べ、

漢字の多い小難しい詩を書き連ねたことを思い出す。

確か、三田詩人はつかこうへい氏で、ひらがなだけの詩だったと記憶して

いる。