甚内神社
浅草橋3丁目11-5
高坂甚内という輩を祭る神社で、病気平癒を願う人の信仰を集める。
8月12日の命日には、多くの輩でにぎわうという。




「甚内霊神」の名で江戸初期に創建された。
甚内は武田家家臣高坂弾正の子。武田家の滅亡後は祖父に伴われ諸国を旅するうち、宮本武蔵に見いだされて剣を学び、奥義を極めた。
武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱したとして幕府にとらえられ、鳥越刑場で処刑された。
その際「我瘧病にあらずば何を召し捕れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒せしめん」と言い残したことから、病気平癒を願う人々の信仰を集めたという。

高坂甚内という輩の逸話は諸説ある。
まず、「高坂弾正」は春日虎綱という武田家臣で譜代家老衆。
晴信(信玄)・勝頼に仕えた。
「高坂(香坂とも)」の姓は信濃国更級郡牧ノ島の香坂氏の家督を継承していることに由来し、名乗ったのは最も長くて弘治2年-永禄9年(1556-1566)と言われる。
「弾正」は仮名として名乗っていたとされる。

苗字の表記も高坂、香坂、その子の甚内も向坂、幸坂(いずれも「こうさか」)と別れているようだ。

甚内の没年は慶長18年(1613)。
下総国向崎の出身の盗賊であると伝わる。甚内神社に祭られていることから同一人物であるといえる。

処刑地となった浅草・鳥越の墓石ならびに祠が江戸の地誌に取り上げられ、甚内に関する様々な説ができたようである。
『江戸砂子』には、甚内は捕縛されたときに瘧(マラリア)を患っていたと言われ、死に際に「瘧に苦しむものは我に念ぜば治してやろう」と言い残したとある。
『遊覧雑記』では、甚内は武田氏の臣・幸坂弾正の子で武田氏滅亡後、祖父に連れられ摂津の国へ逃れ、宮本武蔵に弟子入りしたが、己の腕に驕り辻斬りをはたらくようになったため破門。その後盗賊になったとある。



ところで、前掲の説明板には「かつて鳥越川にかかる橋のひとつ『甚内橋』の名も付近に甚内神社があったからだといわれる」とある。
鳥越川は関東大震災後、暗渠となりかけられていた橋もなくなったという。

神社の構内にも、甚内橋の碑があった。
しかし説明板によると、これとは別に、浅草橋3丁目13番4号にも、甚内橋の碑があるという。



甚内神社は関東大震災まで浅草消防署付近にあったが焼失し、昭和5年(1930)に現在地へ移ったという。

〒111-0053 東京都台東区浅草橋3丁目10−5