こんばんは、そしてこんにちは。てなると申します。

 

突然ですが、自分に自信をつける方法と聞いて何を思い浮かべますか。

 

スポーツができるのであれば、次の試合に向けて自分の能力を磨く。

勉強ができるのであれば学校の試験の点数上昇や資格の取得、自分の市場価値の上昇に繋がることをする。

モテないのであれば、自分磨きとして垢を抜けたり、出会いの場を設ける。

 

理由があるのであれば、自信のない事柄と自信をつける方法には因果関係があると言えるでしょう。

ですが、その自信のなさに「理由がない」場合はどう思いますか。

 

どんなに筋トレをしても、自分の強さに自信がない。

どれだけ賢くても、知識の通用しない状況にて己を疑ってしまう。

どれほどモテモテでも、心の底では愛されてないと感じる。

 

もちろんそのような悩みがある人はごく一部でしょう。

なんならそのごく一部の人の自信のなさは、客観的に見れば高貴な悩みと言えるかもしれません。

他者を超越している人が自分を棚に上げているのであれば、それこそムカついたりイラつくものの怒りや復讐心という形で解消できるかもしれません。

ですがそんな人が自分の能力を認めず、何なら自分はまだだ、もっとできるはずだと思っているとなると、憎めない。何なら自分が頑張った先でもその人のように解放されないのかと思うと気味が悪くなる。よって気持ちは解消されず、蓄積していく。なぜあの人は他の人より「持っている」のに、悩みの渦にあるのか。

 

でもよくよく考えると、相手と自分でそもそも判断の基準が違うのかもしれない。

何かを「持っている」と言いはするが、その「持っている」人は果たして本当に持っているのか。

もっともわかりやすい例は「お金と愛のどちらを選ぶか」であろう。

愛を選ぶ人はいくらお金があっても、愛がなければ満たされない。

一方お金を選ぶ人はいくら愛があっても、お金が少なければ満たされないと言える。

 

もっともこの例も的確ではない。お金を気にする必要のない、自分にとっての最低限の暮らしができる条件で愛を選ぶ人も、生活が苦しい故お金を選ぶ人もいるだろう。もっとも、お金で愛は買えなくてもお金がなければ何も買えないのだから。

だが育ってきた環境の条件がほぼ同じ、それこそ双子の間でも割れる可能性のあるのがこの2択である。

それは紛れもない事実であり、「同じ」人間でも価値観が全く違うことの裏付けになるであろう。

 

それこそ「持っている」のにも関わらず自信のない人もそうと言えるのでしょう。

何なら、自己評価の基準自体が違うのかもしれない。

自分の「持っている」高い能力や周りからの評価と、自分本人としての評価が結びついていない可能性もある。

そのような人にとっては例えどんなに文武両道、才色兼備であっても、それは自分の能力や才能、周りから見た自分に対する評価なのであって、自分本人としての評価に繋がらないのであろう。

 

ものすごいバズることになったYoutuberがある一定の成果を出したら失踪するのも同様であろう。

活動を続けていけばきっと配信者一筋でも稼げそうなのに、大台を目前に辞めてしまう。

ファンからしたら活動休止は虚しいことだし、第三者からするとせっかくの機会が勿体無いと思う人もいるだろう。

 

そのような「周りから見たら持っている人」は(私が上から目線で言えることではないが)ものすごい生きづらさを感じているのだと思う。

その才能や数値化された評価は周りの意見から見たら「持っている」のに、肝心の自分はそう感じることができない。

何なら評価され続けられることにより「自分から見た自分の評価」と「周りからの評価」が乖離していき、さらに辛くなっていく。

よって乖離しすぎる前に突如失踪したり、他者や特定の事柄に強く頼ろうとしたりするうちに、更に自己嫌悪へと繋がる。

 

そう考えると、自分の評価を自分のものとすることができる私達はある意味では幸せなのかもしれない。

学校の成績が上がって下がっては一喜一憂し、バーゲンセールやで安い物を買うことができては得をしたと微笑み、周りから評価されなくとも自分という存在には絶対的な自信を持つことができる。

ただそんな「持っていない」人たちの中にも、今の自分の幸せを大切にできる人、現状への不満を発散する人、「持っている」人になろうとする人など、様々な価値観を持つ色んな人がいるのだろう。

多様性や様々な価値観への理解が重視される今のご時世。一つの結論を出そうと急がずに、じっくり考えていくことが案外求められているのかもしれない。