またいつかあえるだろうか

ぼくのともだち

 

 

12年後にまた会えたら奇跡だね( *´ω`* )

 

12年なんてあっという間だけど、

人が変化、変容するには充分すぎる。

12年どころか、

来年何に夢中になってるかすら

わからないや。

 

何事も長続きしなかった私は、

子供の頃から何十年も続けてる趣味や

習い事がある人って

すごいと思ってたし、

心底羨ましかった。

そして、どうして私には

そういうものがないのか、

なぜ私は何も続けられないのか、

モノにできないのか、と

苛立ち、悲しみ、自信をなくしてた。

 

50年生きてみて、

私はそれでよかったんだ、と

うっすらと理解できてきた。

 

続けることには意味はない。

続いたのはただの結果。

今これが好き、

今これがやりたい、

その連続であるのなら、

いや、それすら必要なくて、

その時それを選んだ自分を

今の私が認めて受け入れさえすれば

それでよいのだ。

 

12年前の私は

何に興味があったっけ。

すぐには思い出せやしない。

そんなもんだ。

 

2011年、震災のあった年。

今でも覚えてる。

あのときの私は

自分の無力さに絶望してた。

私にできることなんか何もない、

私に変えられることなど何もない、

私などいる意味があるんだろうか、と。

 

あのときの私は、

役に立ちたかったんだ。

役に立てない私なんかいらないと思ってた。

 

あのときの私は、

役に立つって

すごいことをすることだと思い込んでた。

世の中の流れを変えるようなこと、

人から賞賛されるようなこと、

そのためには力が必要だけど

私には何もない、と思ってた。

 

あれから約10年が過ぎて、

今度は世界規模の疫病が世の中を激変させた。

いや、疫病が変えたわけじゃなくて

変えたのは人間だけど。

 

あの閉塞感はひどいもので、

当時もブログに書いてたけど、

ああ、戦争というのは

こうやって始めるんだ、と

うすら怖かったよ。

 

10年前の私だったら、

きっとここでまた

勝手に落ち込んでいただろう。

しかしそうではなく、

今度こそ私は

私にできることをできたという

自負がある。

世の中の分断に苛立ちはしたし、

今もその気持ちはあるけれど、

それでも、

二極化した何かの

両極にあるはずの

同じ思いに気付こう、

感じていようと

何度も思い返せる自分でいようと

明確に思っている。

 

あの頃好きだったもの、

今は興味が薄れたり、

あるいは捉え方が変わったりしてる。

物も、人も。

あの頃は絶対理解できなかったこと、

認められなかったこと、

許せなかったこと…

 

ああ、今とは全然違ってる。

 

12年なんて、そんなもんだ。

コミケだの呪腕殿だの言い出してから、

そろそろ12年のうちの半分くらい経つ。

私としては続いてる方だ(*´艸`*)

しかしこの先はどうだろうね。

 

この先がどうあれ、

その時の私に

できるだけウソつかずにいたいものですな。

 

もし、ですが、

12年後まで生きてたとして、

まだこのブログやツイッターも

続けていたりして、

どんな形であれ

パ寅ッシュとの再会のお話がかけたら、

今の私にとって

これほど感慨深いものは

ないでしょうね( *´ω`* )