Heaven's Life
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秒読み


そんなこんなで更新をず~っとサボっておりましたが、経過を綴らなきゃ!w

9月6日に出国が決まりました!
引越し先はインドネシア、バリ島です。
当日はS専務が迎えに来てくれ空港まで送ってくれるそうです。「ありがたい!!!」

そして昨日は役所へ出向いて住民票を抜き、年金と健康保険の支払いをストップさせ、
固定資産税などの請求送付先を指定して・・・と、諸々の手続きを完了させて参りました。

会社の方は仕事自体は既にS専務が中心となって動いており、
移住後、会社からの銭の送金関係もリハーサル完了!
実家の店のヘルプも、ぼちぼちフェードアウトの準備かな?w

しかし荷造りが全く出来ていない!何を持っていくか・・・問題はそこです。
財布・パスっポート・本10数冊・iPhone・PC・着替え・・・あと何だ。。。
この装備はトリップや小旅行の時の装備に毛が生えた程度だ。
今回は数週間や1ヶ月とかのスパンではないんよ。。。コレでいいのかなぁ~
まあ、ゆっくり考え返してみますかぁ。(笑)

そして出発の少し前にはネットも解約し携帯も始末するので、
おそらく次回の更新はインドネシア国内からになるのでしょう。。。
では、いざ出陣!

BPDと共依存考察

俺が最近チェックしてるある人のブログに、たまたま「境界性人格障害」の事が書かれていた。
俺の離婚した元妻はその境界性人格障害だった。
だが、その病気の認知度の低さから当時は相談しようにも相談相手を見つけるのも一苦労、
対処の方法も困難を極め、孤軍奮闘な状況だった。
だからこんなマイナーな病を知ってる人が居たのにも驚いた。
そんな俺も最近じゃすっかり平和な日々で、離婚から何年も経ち記憶から若干、風化し掛けていたが
そのブログを読み、つい先日の事の様に思いだして、あらためて身の引き締まる思いになった。

俺の「お気楽 移住日記」には一見似合わない内容っぽいが、よくよく考えてみれば
この経験も移住へのプレリュードの一つになってるのは確かな訳で
そして今も何処かでこの境界性人格障害の被害で悩んでる人の参考になれば?と言う思いと
俺自身も離婚から4年が経ち、いったんこの辺で少し境界性人格障害(※以下BPD)と言う
元妻の病気についてもう一度、自分の経験を書いてみようと思った。。。

元妻の病気であったBPD、この病特有の症状に
患者本人も無意識?のうちに行ってしまう行動で
①【依存したい相手との共依存関係の構築】と
②【周囲の人間のコントロール】そして
③【対人評価が『大好き←→大嫌い』と極端から極端に移動を繰り返す】
と言うモノがあった。

当然これが非常に厄介で専門書や詳しい人に訊くところによれば、
患者自身が依存したい相手(パートナー) の友人など周辺の人間関係へ、
例えば身内や親戚や友人同僚、昨今ではネットなどでSNSを通じて
患者本人とパートナーが共通の周辺人物へ接触してデマや誹謗中傷を流し、
パートナーを孤立させ、自分の方へ依存度をあげる。
まずこれが①【共依存関係の構築】だ。

それと同時に患者自身は依存したい相手(パートナー)に対してもブラフを流す。
例えば、「周囲の人はあなたの事をこんな風に言ってたよ」とか
「私は前々からあの人達を信用してなかった」などと
言って人間関係にヒビを入れ混乱させる。同時に徐々に患者自身を「可愛そう」だとか
「見捨ててはいけない」と思わせる様にあやつる。これが②【周囲の人間のコントロール】である。
この段階で周囲にいる人間達は一気に対人関係が緊張状態になり疑心暗鬼に陥る。

そういう時、大抵BPD患者だけは両者との関係が良いままなので双方と連携を取り行き来し、
三角関係の支点に自らのポジションを置く事によって自分だけが見捨てられるリスクを無くす。
気付かぬ間にすっかりBPD患者のコントロール下に入ると言う訳だ。
しかも、治療に関わるカウンセラーやプロの精神科医でさえ
BPDが相手ではあっけなく手玉に取られ、知らず知らずのうちに操られてしまう事もよくあると言う。。

これだけでも十分タチが悪いのだが、このBPDという病気は酷くなるとそれだけでは済まない。
作り上げた共依存関係が盤石なものか?を、心配で確認をする。
方法も多彩で※ODなどの自殺未遂を繰り返し、
「そんな問題をおこしても自分の事を見捨てないか?ちゃんと自分の方を観てるか?」
それを試すのだ。
当然病気だから、何度確認しても、何度良い結果が出ても、見捨てられる不安は消えないし
心が満たされはしない。。。結局、自分自身が最愛の相手でさえも信頼出来ないのだ。
しかも、このテスト結果に納得がいかないと、
例えば注意したり意見したりしたら、依存したい相手(パートナー)への評価は真逆へと変わる。
これがつまり③【対人評価が『大好き←→大嫌い』と極端から極端に移動を繰り返す】 だ。

これは依存したいパートナーに対してだけではなくパートナーの周囲の人間に対してもあり得る事で、
例えば患者の流したパートナーに関するブラフの情報操作に対しても「あの人はそんな人じゃないよ」など
否定的な返事をすれば、たちまち周囲の人間も③の様に思われる可能性がある。

③で悪い評価に変ったならば誹謗中傷・イタ電・やストーカー行為に拍車がかかる。
そして、こうなった時点ではもはや単なる情報操作ではなく、仲裁や警告など他人の意見も耳に入らず、
相手がまるで仇か?の様に躁鬱状態を繰り返しながら全身全霊を傾けてつぶしに掛かって来る。
当時の俺も、ココまでくると夫婦で一緒に病気と向き合って行こう・・・どころではない。
よもや、対BPD患者との戦いになっていった。

実際ココまで来ると患者もパートナーも両者の日常生活はメチャメチャだ。
病気の本人は当然の事ながらキツイだろうが、支えている方は身体的にも疲れ果て
対人関係もズタボロにされ社会生活にも支障を来たし、
経済面・精神面で支えていたパートナー側(依存された人間)が壊れた時、
転落のスパイラルは加速する。

ここで若干「なれそめ」と「のちの顚末」について話しますか。。。
元妻との出会いはあるイベントで知り合った。知り合った時から意気投合し直ぐに付き合い始めた。
交際当初から、彼女からは「その病気」の事と、それに伴い「精神障害者2級」であると言う事実を
カミングアウトされていたが、それまでの俺の人生で「心の病」の人とは縁が無かったし
うつ病の知識でさえ「あぁ元気がなくなっちゃう病気だろ?」程度で
実際の認識は、あれが病気か?根性がないだけか?さえ判ってない程でした。
「統合失調症」や「境界性人格障害」などの事を詳しく知るはずもなく、
ましてや、彼女は温厚で頭の回転も速い女性で
付き合っていても彼女の何処に問題があるのか?全く判らなかった。
だから、それを聞いても「そっか。そしたらさ、ゆっくり治して行こうよ!」などと言っていた。
やがて交際も1年近くなり、連泊が半同棲になり、結婚した。
そこまでは無問題で幸せそのものだったが、入籍2ヶ月頃から状況が変わって来た。
イマイチ原因が判らなまま突然始まる友人知人とのギスギスした関係の多発。。。
結局、誤解も解けず未だに疎遠になってしまった知人も数名いる。
※(まさか裏で別のチカラが働いていたなど、その時は想像もしなかった)
やがて元妻は外に出掛けなくなったり、一日中寝ていたりが始まった。それを見ていた俺は
最初は体調不良だと思っていたが、そのうち更に悪化し
突然、昼夜を問わず大きな声で悲鳴の様な奇声をあげ、声が枯れて疲れ切るまで
小一時間出し続けた。近所迷惑で彼女の口を手で覆うか?を、何度も考えた事もあったが
たぶん逆効果だろうと思い、ただただ、「大丈夫だよ」と声を掛けながら
ハグして頭と背中をさすってやるしか出来なかった。
加えて、「生きてるのが嫌になった・死にたい」などを言葉を頻繁に口にする様になってきた。

しかし健康な俺からすれば、
「え!?何で!?死ぬの生きるのって程の悩みがある訳でもなく、
五体満足でなんでもやろうと思えば出来るし、むしろ『死にたくない!』って言ったところで
人間なんて何十年かしたら死んじゃうんだぜ・・・」って感じだったので全く理解してやれなかった。

そして、仕事から帰宅して真っ暗な部屋の明かりをONにすると家の中が荒らされた様に散らかり、
睡眠薬や抗鬱剤の※ODで元妻が白目を剝いて泡を吹いて倒れている・・・そんな毎日が始まりました。
これ以上の話はドロドロな内容なので辞めときますが・・・
俺自身は看病して添い遂げる覚悟はしていたので心が折れる事はなかったが、
体は言う事を聴かないもので・・・過労と寝不足が続いて数日入院してしまった。
そして俺が入院中で家を留守にした間にも元妻は問題を起こしてしまった。
その時に動いてくれたのは両親や親友たちだった。

元妻の両親は彼女が成人する前に他界し弟と二人きりで、その弟も我々と同じ頃に結婚し
関西に暮らしていた。なので、帰る所もない元妻に対してそれまでは「見捨ててはいけない」とか
「自分さえ我慢すれば良いんだ」とか「俺が守らなきゃ誰がこいつを?」との、思いだけで来れたが
元妻の対応を友人や親にさせてしまった事で、
「必ずしもそれが良い事でもなかったのか?もし、支える側の俺に
万が一の事が有った時には一気に周囲の人々に迷惑や苦労を掛けてしまう!」と、
自分たち夫婦だけの問題ではない事にも気付かされた。
またドロドロな話は抜粋しますが・・・
最後は元妻は警察7人で取り押さえるほどの事件を起こし、
横浜市長命令の「強制措置入院」になり、しばらく後に離婚しました。

当時自分なりにギリギリまで踏ん張ばるも、いよいよ考え悩んだ末、
物理的・精神的に別れる答えに至った訳だが
後に知った専門書の見解や詳しい人のアドバイスによればやはりこの結論以外ないらしい。
そして共通して言ってるのは 『全力で逃げろ!』 だった・・・

離婚から1年ほど経った頃、このBPDに詳しい友人と会った時にこの話しになった。
俺が
「相手が誰であろうとも人との別れは寂しいモノだが今回の件は+α結果的に見捨ててしまった様で
かわいそうと言う気持ちが強く自分の方に加害者意識を時折感じる事が・・・」
と話したところ、
知人いわく
「+αの部分って言うのはまだBPDのヤツから受けた洗脳からお前自信が抜け切れてないからキツイんだよ!」と言われハッとした。
つまり『洗脳からの脱洗脳』は更に簡単に行かない」と言うか。。。

この病気の患者か?否か?は親友や恋人や同僚など身近な付き合いをしないと、まず見えて来ない。
あの騒動から4年、その間に知り合った人物の中に男女数名ほど疑わしい人も出会ったが
不器用ながらも、距離の掴み方や離れ方を心得ていたので大きな被害はなかった。
そういう面では、今振り返るとあの経験は決して無駄ではなかったし、
今後の人生の「人付き合い」の部分では以前よりも自信がついた。


※BPD=境界性人格障害の洋名・ボーダーライン・パーソナリティー・ディスオーダーの略称
※OD=薬物などの大量服用・オーバードーズの略称

 支援物資輸送



先日6月5日 日曜日、地元の同級生のヨシオ君と一緒に東北関東大震災の被災地の一つでもある
福島県いわき市まで支援物資を届けに行って来た。

未曾有の大震災、広範囲に及ぶ被害の出てる中、何故福島のいわきか?というと、
ヨシオ君は福島県いわき市の大学に進学し、そこで初めて1人で生活し、親友や恋人もでき
学校以外のバイト先でも色々な人と知り合い支えられて4年間を過ごした地だったからだった。
それだけに思い入れや感慨深いものがあるのだ。

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彼は震災当初から毎月、ミネラルウォーターや食糧・紙オムツや日曜消耗品などの
支援物資を届け続けている。
かれこれ3ヶ月過ぎた訳だが継続した支援が必要との認識はあったので、
今回俺も遅ればせながら同行させて貰った。

行く前までの俺の予想は
 「福島=原発の被害で、インフラや建物などの被害は宮城・岩手に比べても壊滅的被害ではなく、
かれこれ3ヶ月も経過してるから復旧も相当進展してるだろう・・・」
などと考えていた。

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横浜から首都高にのり常磐自動車道へ向かい約3時間ほどで到着したそこは、間違いなく
関東の被害とはケタ違いの状況だった。そもそも常磐道も茨城県に入った頃から
高速道路は路面が波打ち車の乗り心地も変わり、随処に補修した継ぎ接ぎが目立っていた。
田園風景の中に見える家屋も屋根瓦が落ちブルーシートに重石を乗せた家々が目立ち始めた。
いわき市に到着後、まず最初に彼と向かった先は、毎月物資を届けているNPO法人 日本ユニバと言う組織の
備蓄倉庫だった。そこでミネラルウォターや乾麺などの積荷を引き渡した。
元は配送センターだったと思われるその倉庫は相当広く、入口付近にはトレニアとパイプ椅子を並べて
簡易的な事務スペースが設けられていた。広いだけに倉庫内はスカスカな印象ではあったが
比較的色々な物資があり、俺の所見ではこれが足りてるのか?不足してるのか?判らなかった。

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引き渡しを終えた我々は食事を取らず、すぐに四倉・久ノ浜・などの海岸付近の街へと向かった。
四倉の海岸沿いにある「道の駅」を見て俺は今回の地震が『大震災』だった事をハッキリ自覚した。
まして、この付近は福島第一原子力発電所から40~50キロのところだ。
久ノ浜地区などは16メートルの津波の後、広範囲に渡る大火災もあったらしく
瓦礫の山も生き残った立木も黒く煤けており、
腐敗臭と海水の生臭い匂いと焦げた匂いが入り混じり、周囲を覆っていた。
それでもヨシオ君の話によれば、以前よりも通行出来る道も増え、
横転してクチャクチャになった列車な ども撤去され1か月前に比べると格段に良くなってるらしい。。。

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う~ん・・・
訪れてから数日経ってるが、俺にはあの惨状を未だに人に上手く伝えられる言葉はない。
ただ、言えるのは先程見た広大な倉庫に備蓄中の支援物資では全然足りないだろうと言う事。
そして、
多くの日本人に直接現地へ行ってもらい、、自分の目で被災地の現状を見て感じ取って貰いたいと思った。

義捐金・反原発デモ・食糧支援・節電・・・携わり方は色々あるし、勿論これも大切な事だが
そういった関わり方だけでは、結局「対岸の火事」的な感覚が抜けないでしょう。(特に日本人は)
ニュージーランドや中国で起こった災害ではなく、自国が傾きかけてる現状にあっても
戦争もなく、食糧の大半を輸入に頼っていながらも寝食に事欠かないある種の平和ボケで
バブルも弾けて以降20年以上経っても「ゆとり教育」も手伝ってか、チンタラと
経済回復も進まず、やっと財政の行き詰まりに国民が気づき始めた掛けたココに来てこの東北関東大震災・・・

いやね・・・、
なぜそんな事を言ったか?、それは俺が知ってる日本って国は土木技術も進んでいて
工事のスピードも速いはずなんですよ!
貧民街もほとんど無くて、街ではボディーが凹んで壊れたまま走ってる車もほとんど見かけなくて、
国中が水はけの良い高機能アスファルト舗装道で整備され、そこを車が滑る様に走る国・・・
個人や企業の土地や建物の処理は今後、建て直すか?移転するか?で対応が変わるだろうし、
各家庭の希望や都合もあって進展に差が出るのも仕方ないかもしれない。
しかし、インフラ復旧がまるでダメダメだ。携帯の電波が入る様になったなんて事は勿論で
問題は道路や仮設住宅の事だ。最近では砂利道なんて山奥でも行かなければ見掛けなくて
水溜りも無い舗装道路が完備され年中いたる所で道路・ガス・電設・上下水工事をやってた
そんな国だったはずが、財制問題で余力がなくなると、この日本でさえもこんな後手後手になるのか?
いや、
政治の乱れと行政の怠慢・・・これと今日まで真剣に向き合わずこれまで
選挙も行ったり行かなかったりのくせにニュースを観るだけで「政治家はど~ちゃの」とか言ったり
海外で数万人規模の反原発のデモが起きて、国策も脱原発に舵を切り始めてる中、
マトモなデモの一つもやれない「雇われ根性」とか「他力本願」でココまで来た日本人一人ひとりが
こんにちの「超えてはいけない土俵際の一線」まで来てしまった・・・と言う事。

すぐにボランティアをするとか、支援物資を届けるまで出来なくても良い、
原発の問題が心配であるなら福島でなく宮城でも岩手でも良い、
まずはあの惨状を国難と自覚し自身の肌と目で感じて欲しい。
戦場や焦土を見た事はないが、あれは決して夢の島の様な単なる瓦礫の山ではない。
きっと自分の頭の中の記憶だけでない、人類の歴史に残る現場だと思う。
賛否はあると思うが、個人的には子供達にも見せておいてあげた方が良いと俺は感じた。

偶然だが福島に行く2日前、中華街のバーで先輩とある有名な俳優さんと3人で飲んでいた時に、
たまたまこんな話になった。。
2人に
「なぁ、お前は『百聞は一見に如かず』ってことわざの続きを知ってるか?」と聴かれ、
俺が
「いや知らないですよ」と答えると、
彼らがこう言った。
「その続きはな 『百見は一行に如かず』 って言うんだよ、百回見て知ってても
一回行動した奴には敵わないって意味なんだよ」

その数日後、俺は福島でこの言葉の意味を心底理解しました。


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 Roots


昨年、俺が移住を決意した時、フッと小学校の頃死んだ爺さんの事を思い出した。
彼はウチの家系の人物のなかでは移住のパイオニアだった。
なので今回の日記は彼を回想してみる事にした。

俺の爺さんは岐阜の出身だ。だが岐阜の親戚とは爺さんの葬式の時しか会った事がない。
当然、俺は岐阜に行った事もない。 
 (新幹線や高速道路で通過くらいはしてるが)

何が嫌だったのか?詳しく知らないが10歳頃から家出を繰り返していたらしい。
毎度、何処へ逃げても見つかって連れ戻されていたそうで
12歳になり何度目かの家出の時、彼は大阪の鶴橋へと逃げ込み
そこで住み込みで働いた。当時の鶴橋も朝鮮人街で、そしてようやく
密告も追跡もない生活がスタートした。

それから20代後半までの15~16年間に何があったのか?はよく解っていないが
その頃には婆さんと結婚し、京都の駅前で旅館を営みながら女中に子育てをさせ
大阪の高島屋に洋服屋まで出店し、当時としては贅沢なマイカーを乗り回すまでになっていた。
やがて戦争が始まり、爺さんは北海道へ守備隊として出兵する。
日本の敗戦により終戦を迎え、無事に復員するのだが当時の都市部は戦争末期から食糧難で
子沢山の一家は大変だったらしい。しかし爺さんは戦時中にも食べ物が比較的に豊富だった
北海道に着目し、復員までの間に話を付けていたらしく家に戻ると同時に旅館や財産を売り
トランクの中にぎゅうぎゅう詰めに札束を入れ、自分の家族と女中2家族を連れて汽車で
北海道の現・北広島市へ移り住んだ。
爺さんは後世その地で暮らしたが、8人居た子供のうち俺の親父を含む数名は
進学や就職で上京した。

以上の事は周辺から聞き取りの出来た話だが、俺の知ってる爺さんと言う人物は
眼帯と出っ歯を無くした丹下段平そのもので、七分・腹巻・黒ゴム長靴で
腹巻には札束が幾つかはさまっていた。憶えているエピソードは
俺が小1の夏休みに遊びに行った時の事だ。当時、親父も商売をしていたので帰省は俺一人。
羽田までオフクロに送って貰い、1人で千歳まで行き、向こうに親戚が迎えに来ていて
2週間程従兄弟たちと寝食を共に過ごしていた。まぁ、てい良く預けられていたのかも知れないが(苦笑)
そして帰りもその逆パターンで帰ってくる・・・はずだったのだが、
北海道は首都圏より夏休みが短いため見送りに来たのは爺さんや大人だけだった。
ボーディングが始まる頃、爺さんがカウンターでゴニョゴニョと職員と話し込んでいた。
最初は何をやってるのか?判らなかったが、戻って来た爺さんは「ワシも行きたくなった」と言い
自分のチケットもGETしていた。お盆時期でこっちは1か月前から予約してやっと買ったらしいが
彼はANAの株を相当保有してたらしくサクッと入手して一緒に羽田まで、いや、家まで来た。
手ぶらで、この時も腹巻&黒ゴム長靴と言ういでたちで。。。
この翌年、爺さんは喘息で亡くなってしまう。
葬式には関西方面の在日韓国人・朝鮮人のパチンコ店やラブホの経営者が多数来ていた。(笑)

言いたかった事は、とにかく俺にとって小1の頃の出来事にも関わらず鮮明に記憶に残るほど
尊敬とは違うが、余りにもアナーキーでファンキーな事をやってのける男だたった。
そして、家出や疎開などの様に何らかの理由が発生した時に慣れや居心地のよさやに囚われる事なく、
未踏の世界にどんどん踏み出して行く、と言う
表層的な部分での「逃げる!」と、本質的な部分での「挑む!」の意味を教わった。
それが現在でも俺のビジネスの判断基準や今回の「移住」を考えた時にも、
明らかに俺自身のメンタル面でトリガーのコントロールの基準になっている。

そんな爺さんにに敬意を払いつつ、「あいさつ」と言う意味で昨年秋に実際に鶴橋に行ってみた。
彼が汗を掻いた街を見て、彼が歩いた道を辿って、何かを感じ取りたかった。
そして、それはきっと爺さんにとっても、形骸化した儀式的な墓参りをされるよりも
よっぽど実践的で嬉しいのでは?と思った。
おそらく俺が見た鶴橋は彼が生活した当時とはだいぶ変わってしまってると思うのだが、
それでもまぁ~独特な、異様でヘンテコリンな超楽しい街でした。

そしてこの旅で、俺は彼から
アジア・・・移住・・・挑戦・・・勇気・・・などなど、幾つかの「カギ」の土産をもらって帰る事が出来ました。


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再起動

平日は深夜に帰宅が多い今日この頃ですがパッと寝付けそうにもないこんな日はBlogでも書いてみる法則?
まぁ深夜帰宅、不摂生とか効率が悪いと言えばそれまでですが、
以前のそれとは違いノンビリとしたもんです。

20代の頃からtrip先としてよく行ってた島がBaliでした。
30代半ばから移住を考える様になりイネ語の教室にも通い始め、
仕事や生活の環境もそれが可能になる様に整えて来ましたが、
でも30代半ばって一番仕事もノッテる時期ですよね。徐々に忙しくなり、
日常の半年先・来月・来週・明日・の予定に忙殺されだし「移住?そのうち・・・いつかは・・・」になってました。
仕事やら諸々の活動で毎晩帰宅が深夜にになり、夜飯が0時以降が当たり前。
最後には過労とストレスで虚血性腸炎なる病気になり1か月入院しました。それが38歳だったか。
で、なんだかんだで昨年5月、完全に生活をswitchする事にしました。
手始めに山下公園前のマンションを貸す事に。買って暮らし始めてから7年でしたが、
その生活も捨て3LDKの家の中にあった家財道具も役9割は捨てたり、売ったり、
あげたりして家を賃貸に出す事にしました。
次に車!元々乗り物好きで免許を取ってからバイクと車の所有してない時期はなかったのですが
今回の聖域なき身辺整理に伴い、ゴキゲンなマシンV35クーペと
KAWASAKIゼファーのファイナルエディションでZⅡ仕様にした奴ともお別れしました。
そしてマンションはリフォームして家の借り手が見付かるまで実家に一時退避、ノマド生活になりました。
ところが借り手がなかなか決まらず、そんな途中、思いがけず彼女も出来て一度は移住も取りやめる事にし、
貸す予定だった古巣にでも戻る事も視野に国内での生活を再構築し始めましたが
最後はあっけなく振られて突然の幕引き(苦笑)再度起動修正し、
1年近くになってしまいましたが今回やっと米軍が民間ベース契約で長期で借り上げてくれる事に決まりました。
ただ、この準備期間が想定以上に長引いてプールしてた移住用初期費用を切り崩してしまってたので
この夏までは日本に留まって少々金作してから出発になる模様。昨年に始まったこの身辺整理、
たぶん俺が今死んだなら周囲の人々を煩わせる事も最小限ではないか?と思う程、財産?を処分した。
でも今になって振り返ってみると、これまでの自分は物質的なモノや地位に執着し過ぎていたと思う。
最初は持ち物を一つ一つ処分してく時、寂しさや残念な気持ちも少なからずあった。が、
それも最後の方に近づくと一つ一つ処分してくに連れ、気持ちが若返って軽くなる様な感じに代わっていった。
おそらく数年前までの生活を続けていたとしても、きっと俺の事だからどこまで行っても
現状の物質的・金銭的・人脈・地位・情報・に、たえず飢餓感を持ってて
英語のHungryの様な良い意味の向上心と違う飢餓感でずっと来てたのかも知れない。今は、
健康と適度な金と勇気とそれらを使いこなせる知恵だけが有れば
あとはどうにでも好きな人生を歩める自信が俺にはある。




数年後、フル充電で帰国して何か新しい事をはじめてるのか?南アジア某国で何かしてるのか?
そもそも生きてるのか?どんな自分になれてるのか楽しみですわ。



「清志郎」

友人等は知ってると思いますが、俺は忌野清志郎ファンでして
車の中でもよく聴いてたもんです。

彼の歌には「オカシイものはオカシイ!」とハッキリ言い切る勇気があった。
でもそれがROCKですよねぇ?(苦笑)
一時期はFM東京と裁判になった事もあったし、
過去には反原発を唱えて「T芝」から圧力を掛けられてた事もありませんでしたっけ?(笑)
でも、彼はこれらの曲を20年以上まえから歌ってました。

俺も昨年まではこれらの曲をしょっちゅう聴きながらも
「そのうち大変な事になるのかなぁ・・・?」な~んて考えつつも
よもやこんな事故が現実のものとなるとは…
あぁ、清志郎の言う事を聞いておけば良かった。。。

それでは、そんな非凡だった
彼の曲を2曲続けてど~ぞ!



問題に気付いたところからでも
悔い改めたり方向転換したりで
未来は変える事が出来ると思う。。。


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輪番停電の巻

このBlogには楽しい事や格好付けた事ばかり綴っていたかった。
でも、そう都合良くばかりは行きませんよね?人生も。(苦笑)

本当は「東北関東大震災」全体的な話や「津波」「福島原発事故」「義援やサポート」の事を書くか?
考えたが、1週間経過するもまだ震災の全貌を掴めないどころか
断片的な情報がつながって、やっと状況が見えてきたばかりで
気持ちの整理が着いてなく暗中模索状態だ。。。
でも、忘れないうちに記録として書きとめておく事は必要か・・・
なので今(当面)は『日記』と言う一個人の生活の視点と言う物差しで書こう。。

さて、
震災から一週間が経ちましたが市民生活は未だ混乱が続いてますねぇ。
ガソリンが入手困難となり物流が麻痺し、ルート配送に頼っていたチェーン店は営業がままならず、
コンビニの棚からはパン・弁当・カップ麺が消えた。
そして首都圏では電力不足から輪番停電が発動され、日常生活も仕事も停電で半強制的にストップし、
鉄道の運行さえ停電に左右され当日に突然予定変更とか。。。
そのため朝は満員電車で通勤して来た人達も夕方には
都内から自宅のある近県まで歩いて帰る「帰宅難民」と化してしまった。(お疲れ山です)

自分の今暮らす横浜の郊外もその御多分に漏れず1回3時間程度の停電が一日に1~2回ある。
今宵は18時20分から22時まで、まさに真っ最中。だから筆不精のオイラがBlogなんか書いてるのだが。(笑)
ガス器具でさえ電気の制御を必要とする物は停止してるため暖も取れない。
信号機も消えてるので今日の場合の様に夜間停電の時は移動も乗り物の運転は避けたい。
窓からの眺めは漆黒の闇夜と人造的な音の消えた街、星が心なしか多く見えた様な…(気のせいか?)
んでもって時々何故か?低空を飛ぶヘリの爆音に近いローター音と緊急車両のサイレン。
んなモン、東北の被災地に比べれば大した事ではないのだろうが、明らかにココも平時でない事は実感した!

しかし考えてみれば、知らず知らずのうちに最近は減ってたり無くなってた事なんですよ。
思い返せば子供時代(昭和40年代後半~50年代前半頃)は日常の生活のなかで
まだまだ落雷や地震でイレギュラーな停電が起きてロウソクを灯して風呂やトイレに入ったり(笑)、
時々ヘリコプターが超低空を飛んで来て、話し声や電話が聞こえないって状況が時々あったよなぁ~。
※そんな時、届く訳ないのにヘリに向かって小石を投げたり(爆)

いつの間にか暮らしやすい世の中になってたり平和ボケしていた事に改めて気付かされました。。
バリ島やジャワ島に暮らす友人からは最近でも停電の話をよく聴くけど。。
「不便と快適」とか、「不幸と幸せ」とかって、比較する対象にギャップがあるほど、
時にしんどかったりする反面、有り難かったり感謝が出来たり!
で、そのギャップを知ってる奴ほど幸せ者とか人生を楽しめてるんじゃないか? 
な~んて事を思いました。

あ!今ラジオの情報では明日は輪番停電が回避されるとか…
ホントにそうだと良いが。
週末だからノンビリ息抜きしちゃお~か考えたけど、少しは仕事が捗りそうかな?(´-`).。oO(あはは~



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お医者さんと禁煙プログラム終了しました。

あ、そそ!
11月下旬から延べ3ヶ月に及んだ「お医者さんとの禁煙プログラム」も
無事に終了しやした。パチパチパチ~
...11月までハイライトを1日2箱以上喫煙してたのが
いまだに自分でも信じられない。
(友達連中はオレが辞めたのを冗談だと思ってる奴もまだいる)

禁煙する前の不安ってのは
単純に「ヤニ切れ」の禁断症状が辛いだけではなく、
これまで日常生活の節目節目の一服の習慣、例えば
起床就寝・仕事後・食後・乗り物の乗車前後・飲みの席・で
絶対に気持ちの切り替えに不可欠だった。
それが無くなる事が不安だったし考えられなかった。

クルマで例えればシフトチェンジですよ、
クラッチ踏んで!ギア変えて! クラッチ離しながらフルスロットル!みたいな…
それがなくなる、退屈な無段階変速のAT車になってしまう様な…
「気持ちのスイッチが出来なくなるなんて・・・考えただけでコワ~ッ!!」・・・でも
やってみたら意外と楽勝でした。(笑)
むしろ次の行動を起こすまでの無駄なタイムロスが無くなったと言うか、
次の行動に移るにも腰が軽くなった!

前時代的なニコチンパッチなどの治療とまったく方法が違う
最先端の禁煙治療はやはりスゴかった!!

オレはこれを観て背中を押されました。
『ファイザー製薬:舘ひろし氏の禁煙治療記録 全5話+インタビュー』
短編ですが面白いのでどーぞ。


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Blog 引越しました。

先日、友人から
「アメブロとTwitterの連携はマジでヤバいっすよ‼」と言う勧めを受け
何がどぉ「ヤバい」のか?イマイチ ピンと来なかったけど、
とりあえずFC2から引越してみました。

アメブロはデザインのカスタマイズがファビコンの配置一つ変更するのも
FC2に比べ少々手間だったり制約が多かったりで難儀しましたが
優秀な専務の手を借りたら意図も簡単に(笑)
FC2時代のデザインとレイアウトで完全移植に成功!

「櫻井さ~ん、本当にアリガト~ゥ!!」


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映画 『180° SOUTH』

実は先日まで『ソーシャルネットワーク』と言う映画を観たいと思っていたのですが
(今も観たいですが)
同級の友人から映画『180° SOUTH』の存在を聞かされました。
話しを聞いただけでスグにでも観たくなったんだけど
とりあえずどんな内容なのかwebでチェックした。。。

う~ん。
どうも、どちらの映画も実話を元に創業者の軌跡を辿った映画には違いない様だが
『ソーシャルネットワーク』の方はFacebook創始者ザッカーバーグ本人の協力を
あまり得られないまま製作された映画らしい。つまりノンフィクションと言うより
周辺の人物からの聞き取りや監督や脚本家の主観が入った
「実話を題材にした物語」なのか・・・物語としては面白そうなんだけどね。

一方、
『180° SOUTH』は、patagoniaとTHE NORTH FACEの創始者でもある
イヴォン・シュイナードとダグ・トンプキンズの親友2人の旅の話しで
1960年代後半、北米から中米を抜けチリまでを貫くパンパシフィックハイウェイと言う
「ハイウウェイ」とは名ばかり悪路をオールドバンを運転して
道中サーフィンやクライミングを楽しみながら陸路でカリフォルニア~チリ・パタゴニアまで行き、
最終的にはパタゴニアの高峰コルコバド山に登頂するまでのグレートな冒険旅行の話しである。

この旅がきっかけで後に、イヴォンは「patagonia」を
そしてダグは「THE NORTH FACE」をそれぞれ起業し今日に至っている。
同業種でもあり、経営理念や環境への取り組みはお互いに違う考えを持っているものの、
この2人の友情は今も全く変わる事がないどころか
さらに協力関係や頻繁な交流が今日も続いている事が俺はとっても嬉しかった!

この映画では、そんな旅を現代の青年男女3人が今回は船と車を使い、
ダグとイヴォンの当時の8ミリ映像を交えながらその同じ軌跡を辿るのだが
実はこの映画のなかで創始者2人は若かりし頃の8ミリ映像だけではなく、
70代に突入した現在の御本人もインタビューのみならず、体を張って出演している!
そうなればも~ぅ『180° SOUTH』観たい!と、俄然、好奇心をそそられました。
        

そして昨日観てきたのだが、超良かった~!!
映画の内容は、雄大なパタゴニアや南米の自然を視覚的にも楽しめたし、
環境保護的な側面や、サーフィンや登山・クライミングなどの
アウトドアスポーツの魅力もよく描かれていた。

そして個人的に出演陣の発言や行動を見て感じたのは哲学を持って生きてる奴等ほど
人生の分岐点に立った時、勇気と知恵で自分自身のトリガーをコントロール出来て、
実は自由に生きられるんだなって事を再確認させてくれた・・・そんな映画でした。
俺もそんな旅に出たいと激しい衝動に駆られました。。。