慧子と朝右が、互いを血の繋がった姉弟だと認識しているーー 一方で年長の慧子は、実母らしき存在が朝右と面会することが無いことから、二人の関係性に疑問を抱く・・
前世の物語を視ながら、平安時代の権力を巡る争いの末、血縁は無いが、まだ若い二人の命を護るため、都から密かに遠ざけられたのでは、と想像した。
権力闘争は人間に埋め込まれた本能であるかのように、これまで歴史のさまざまな場面で繰り広げられてきた。
日本の平安時代も同様だ。大きな戦はなかったが、階級社会に生きた貴族たちは地位上昇をめぐって、策謀をめぐらせ画策を練っていた。平安宮廷社会は権力奪取をめぐる闘争の場だったのだ。
ただし、平安宮廷社会では天皇の位ではなく、それを後見する摂政、関白をめぐってなされていた。
摂関政治体制では権力者は天皇ではなかった。次代の天皇を決めるのもその後盾なので、天皇の権威は、摂政、関白に移譲されたも同然で、なし崩し的に権力の最高位は摂政、関白に置き直されていたのだ。
天皇の後見である摂政、関白の座は天皇の外祖父であることを根拠とした。
娘が天皇の后になるだけではこの地位は手に入らず、娘が男子を産んでその子が次代の天皇になって初めて手にすることができたのである。
この熾烈な闘争を勝ち抜くためには、まずは天皇の籠愛を得なければならない。
天皇の愛情を一極集中させて、天皇の夜をジャックしたいと考えた権力者たちは、教養と才気あふれる女房たちを配備する。
藤原道長は『枕草子』で評判をとっている清少納言のいる中宮定子のサロンに対抗して、娘・彰子のサロンに紫式部を呼んだ。
それだけでなく、彰子サロンには、赤染衛門、和泉式部といった錚々たる文学者の女房たちを揃えた。
権力闘争という生々しい現場で、子を産むという幸いを引き出すために、女性たちの知力をあてにしたのだ。
ところで、そんな平安貴族がどうしようもないときに頼ったのが呪術や信仰だった。
平安宮廷社会には、陰陽師が陰陽寮の役人として常駐していて、吉日を占う暦をつくったり、病人が出れば祈祷をし、依頼があれば呪いをかけたり、その呪いを解いたりするなどの仕事をしていた。
『枕草子』が書かれたサロンの女主人の定子と『源氏物語』が書かれたサロンの女主人の彰子が、次代の天皇となる皇子を競っていた時代。懐妊出産といった人知の及ばないことが争点になるため、運勢を占いに頼りたくもなり、ことによっては呪詛に及ぶこともあった。
ときには神頼みや呪いによって相手を陥れるなど、平安貴族たちはさまざまな戦略を施していたという。
抜粋〜
平清盛はこのように政治、貿易とさまざまな政策を出した有能な政治家でもありました。
しかし、平氏の天下は平清盛の時代だけと言っても過言ではありません。
なぜかというと、平治の乱で処刑した源義朝の息子「源頼朝」(みなもとのよりとも)が反撃し、平氏を滅ぼしてしまうからです。
源義朝が処刑された際、息子である源頼朝も処刑されるところでした。
しかし、平清盛の母が、まだ幼い頼朝の命は助けるようにと進言したため、伊豆に流すにとどめていたのです。
青年となった源頼朝は、北条氏の力を借り、弟の源義経(みなもとのよしつね)の活躍もあって、ついに1185年の「壇ノ浦の戦い」でついに平氏を滅ぼします。
このとき、平清盛の孫でまだ幼かった安徳天皇は壇ノ浦に身を投げました。
そしてここから、本格的な武家政権、幕府を開いておこなう武家政治がはじまっていくのです。


