王の娘(18) ~ 検証・神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世 | 前世の記憶を辿る Past life memories

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元ブログ『前世の記憶』の続き。
前世の記憶では前世以外のカテゴリーも様々書きましたが、本ブログは、
前世関係に特化させたいと思っています。



情報として視えた『十字軍』
そして一文字ヒント
ロ → プロイセン(ドイツ騎士団)
フ → フリードリヒ


一文字ヒントの答えが合っているかどうかは判らないが、
少なくともこの3つのヒントと情報は、ひとつの答えを導き出した。

それは、前回書いた
神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世


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フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝) Wikipediaより抜粋

フリードリヒ2世(Friedrich II., 1194年12月26日 - 1250年12月13日)は、

 神聖ローマ皇帝ホーエンシュタウフェン朝の皇帝(在位:1220年 - 1250年  

12月13日)、及びシチリア王(フェデリーコ1世、在位:1197年 - 1250年)。

 イタリア史関係では、イタリア名のフェデリーコ2世(Federico II)で呼ばれる  

ことが多い。




学問と芸術を好み、時代に先駆けた近代的君主 
としての振る
舞いから、スイスの歴史家ヤーコブ・ブルクハルトはフリードリヒ2世を
「王座上の最初の近代人」と評した。中世で最も進歩的な君主と評価され、
同時代に書かれた年代記では「世界の驚異」と称賛された

誕生
1194年12月26日にフリードリヒ2世はイタリア中部の町イェージで
神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェの間
に生まれる。

成人まで
4歳のフリードリヒはすでにラテン語を習得しており、歴史と哲学の書籍
を読み始めていた。幼少のフリードリヒは自分を利用しようとする周りの
党派に翻弄され、1202年から1206年の間にはマルクヴァルトの人質
にもされた。人質生活の中では必需品にも欠き、同情したパレルモの市民
たちはフリードリヒに食糧を分け与えた。
フリードリヒはパレルモの文化の影響を受けて成長し、
ラテン語・ギリシア語
アラビア語などの6つの言語を習得し、科学に強い関心を示す
ようになった。

また、フリードリヒは肉体面においても馬術、槍術、狩猟で優れた才能を示した。

神聖ローマ皇帝即位
1212年12月5日にフランクフルトでフランス王フィリップ2世と教皇の使者が
見届ける中でフリードリヒはドイツ王に選出され、12月9日にマインツで戴冠した。
1215年にフリードリヒはアーヘン大聖堂でドイツ王に正式に戴冠され、
十字軍の遠征に赴くことを誓約した。
1220年、新教皇ホノリウス3世から十字軍の実行と引き換えに、神聖ローマ皇帝位
を認められ、荒れ果てたシチリアの統治に取り掛かった。
シチリアではドイツとは逆に強権的な政策を布き、グリエルモ2世の死後にシチリア
の都市と貴族に与えられていた特権を廃した。貴族の拠る城砦は破壊されて新たに
皇帝直轄の城が建設され、自治都市には皇帝直属の行政官が派遣された。

またフリードリヒの軍はシチリア南部で山賊行為をしていたイスラム教徒を討伐し、

10,000人のイスラム教徒を捕らえた。フリードリヒは捕らえたイスラム教徒
を新たに建設した都市ルチェーラに移住させ、彼らに自治を許した。
フリードリヒに感謝したルチェーラの住民は軍事的協力を約束し、
彼らは後にフリードリヒの指揮下で教皇派と戦うことになる。

1224年には官僚の養成機関として、法学と修辞学を教授するナポリ大学が創立
された。

破門十字軍
1228年にフリードリヒは40,000の軍を率いてエルサレムに向かう。
道中で軍内に疫病が流行り、フリードリヒ自身も病に罹ったために聖地の土を
踏まずに帰国した。しかし、グレゴリウス9世は教会権力への脅威となっていた
シチリアの力を抑えるため、仮病と判断してフリードリヒを破門する。
フリードリヒは破門が解除されないまま第6回十字軍を起こして再びエルサレム
に向かい、道中でキプロス王国の政争に介入した。

教皇庁は破門されたフリードリヒが率いる十字軍に批判的であり、現地の将兵は

 フリードリヒへの協力を拒否した。一方、エルサレムを統治するアイユーブ朝の

スルターン・アル=カーミルは、アラビア語を介してイスラム文化に

深い関心を抱く、これまでに聖地を侵略したフランク人たちとは

大きく異なるフリードリヒに興味を抱いた。


フリードリヒとアル=カーミルは書簡のやり取りによって互いの学識を交換し
合い
、エルサレム返還の交渉も進められた。フリードリヒは血を流すこともなく、
1229年2月11日にアル=カーミルとの間にヤッファ条約を締結し、10年間の
期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還された。

しかし、現地の騎士修道会の中で、エルサレムの返還を喜んだのは
ドイツ騎士団 だけであり、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団は不快感を示した。
エルサレムに入城したフリードリヒはエルサレム王としての戴冠を望むが、彼に同行
した司祭たちは破門されたフリードリヒへの戴冠を拒み、1229年3月18日に聖墳墓教会
でフリードリヒは自らの手で戴冠した。
現地の冷淡な反応を嘆いたフリードリヒは後をドイツ騎士団に任せてシチリアに帰国する 。

 
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フリードリヒ2世が物語の王である根拠は何もないが、赤字で表示した、学問を
重んじるところ、捕えた敵を痛めつけるのではなく、命を救い、自治さえ許すという
寛大な部分など、視えた王の人となりにとても似通っている気がしてならない--